バードマン あるいは。 3分で映画『バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)』を語れるようになるネタバレあらすじ

バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡) 評価と感想/難しかった

バードマン あるいは

ラストでリーガンはどうなったのか? さて、衝撃的なクライマックスシーン。 主人公リーガンは舞台でホンモノの拳銃を自分の頭にぶっ放すわけですが、間一髪銃弾はそれて一命を取り留めます。 その後、病室のシーンが始まるんだけど、 ここで映画の冒頭から続いた超ロングショットが途切れるんです。 つまり この映画、約1時間45分の長ーい1カットと、最後の病室の15分の1カットの2カットで構成されているわけです。 やたら奇妙で、象徴的で、アヤシイでしょう。 ここで2つのパターンが考えられます (長いので結末が知りたい人はパターン2へ飛んでください)。 リーガンは バードマンのマスクと同じような形に巻かれた包帯を外して、トイレにいるバードマンに別れを告げます。 このシーンはつまり、これまで自分を苦しめていた バードマンの呪縛(幻覚)だけを撃ち殺して、過去の栄光からようやく解放されたことを表しています。 けれどリーガンは病室の窓に向かい、サムが部屋に戻ったときにはもう彼の姿はありません。 サムは窓から下を見下ろし、何も見つけられずに空を見あげ、安堵の笑顔を浮かべます。 リーガンは冒頭から、共演者を意図的にケガさせたり、手を使わずに部屋をメチャクチャにしたり、NYの空を飛びまわったりと、いろんな場面で超能力を使っていました。 だからラストでも、ようやく目標を成し遂げて、鳥たちと喜びと共に空を舞ったのかもしれません。 でも、これはないでしょう。 リーガンは独りの時にしか超能力を使っていないし、舞台監督がいるときには自分の手で部屋を壊していて、手をケガしていたし、街を飛んできたようでも、タクシーに乗っていました。 だから彼の超能力は 「みんな気づいていないけど、自分には隠された才能があるんだ!」という理想を現実化した幻想であったと考える方が自然でしょう。 つまりサムが窓から下を見下ろしたときに、 地面にはリーガンの死体があったのだけれど、ドラッグでラリっていたサムは、空を舞う父親の姿を見ていたという。 サムは傷つきやすいガラスの十代で薬物にも依存していたけど、じつはイカれた登場人物の中では比較的真実をとらえていて(芸術に狂っていないから)、 「リーガンが幸せになるにはもう死ぬしかない」という残酷な真実を見抜いていたんじゃないだろうか。 だから、リーガンの魂が空を舞う姿を見て、「パパよかったね」と安堵の笑顔を浮かべたという。 うーん、でもこれもなんか違う。 パターン2:銃で頭を撃ち抜いて死んでいた やっぱり 自然なのは、舞台で死んでいたと考える説でしょう。 1時間45分の超ロングカットで現実は終わり、その後の 病室のシーンはすべて「リーガンが死後に見た世界」あるいは「リーガンが願った理想の結末」なんじゃないでしょうか。 冷徹な辛口批評家タビサは、新聞で 「『超現実主義』という演劇メソッドの新時代を切り拓いた」と絶賛したんだけど、よく考えてみると、舞台で「演技」ではなく、実際に「死んで」見せる、というのは、演劇という芸術そのものを否定しているわけで、 評論を生業にしているタビサが、それだけで簡単に手のひらを返すとは思えない。 しかもテレビでは多くのファンがリーガンの復帰を願っているというシーンが流れたけど、あれは どう見ても死者を悼んでいるようにしか見えない。 つまり やっぱり、リーガンは死んでいたのです。 隠されたホイットマンの詩と、死後の世界の象徴「ライラック」 キーとなるのは、 サムが病室に持ってきた「ライラック」の花です。 かつてアメリカの国民的詩人ウォルト・ホイットマンは、リンカーン大統領の死を悼んで 「先頃ライラックが前庭に咲いたとき」という、とても有名な詩を書いています。 その詩の中では、 星とライラックとツグミ(という野鳥)が3つの象徴として描かれていて、 「西の空に沈んだ大きな星」がリンカーンを、 「ライラックの花」が死後の世界を、 「ツグミ」が残された者の哀しみを、 それぞれ象徴していると言われています。 冒頭にも途中にも、 隕石が落ちていくシーンがあったし、 サムが持ってきたのはライラックの花だし、 空を舞っていたのはツグミ(が表す鳥)だし、 ラストシーンのベースにこのホイットマンの詩が存在するのは明らかです。 バードマンというスターが地に墜ちた後の、死後の世界と、それを見届ける娘の姿が、あのラストシーンに描かれていたのです。 ちなみにこの詩は、パウル・ヒンデミットというドイツの作曲家が作曲した「愛する人々へのレクイエム」という鎮魂歌にも使われています。 さて、そう考えると、 『バードマン』は決して再起の物語や希望の物語ではないような気がしてきます。 娘であるサムだけには、 「パパが幸せになるには、もう死ぬしかないのよ」とわかっていたと、そんな風にすら思えてきます。 残るのは明日を生きる希望ではなく、暗澹とした絶望。 そこまではよくわかりません。 あるいは本当に、 タビサは心から絶賛していて、無知がもたらす予期せぬ奇跡が、世界中を感動させたのかもしれません。 でも僕個人としては、そうじゃないと思っています。 そんな安直なハッピーエンドを、イニャリトゥ監督が用意するとは思えません。 命を張っても、懸命に努力しても、必ずしも報われるとは限らない。 それが人生です。 それでも、 何か清々しい爽快感が心に残るのは、それもまたひとつの「しあわせのかたち」だからじゃないでしょうか。 世の中には最後まで認められなくても、舞台でカムバックするという目的は達成できなくても、精いっぱいやって、 自分自身や愛する娘が満足できれば、それこそが幸せな人生なんじゃないでしょうか。 そしてリーガン自身は気がついていませんが、 彼はバードマンとして、世界中の多くのファンに愛されていたのです。 そう考えると、冒頭のセリフ、レイモンド・カーヴァーの詩にも頷けるというものです。 「たとえそれでもきみはやっぱり思うのかな、 この人生における望みは果たしたと?」 「果たしたとも」 「それで、君はいったい何を望んだのだろう。 」 「自らを愛されるものと呼ぶこと、自らをこの世界にあって、愛されるものと感じること」.

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バードマンあるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)|あらすじネタバレと感想。ラスト結末も

バードマン あるいは

CONTENTS• 映画『バードマン あるいは 無知がもたらす予期せぬ奇跡 』の作品情報 C 2014 Twentieth Century Fox. All Rights Reserved. 【公開】 2015年(アメリカ映画) 【原題】 Birdman or The Unexpected Virtue of Ignorance 【監督】 アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ 【キャスト】 マイケル・キートン、ザック・ガリフィアナキス、エドワード・ノートン、アンドレア・ライズボロー、エイミー・ライアン、エマ・ストーン、ナオミ・ワッツ、リンゼイ・ダンカン、メリット・ウェバ、ジェレミー・シェイモス、ビル・キャンプ、ダミアン・ヤング 【作品概要】 かつてスーパーヒーロー映画『バードマン』で大スターとなったものの、現在は仕事も家庭もうまくいかず失意の底にいる俳優リーガン・トムソンは、復活をかけたブロードウェイの舞台に挑むことに。 しかしその矢先出演俳優が大怪我をして降板。 代役にブロードウェイで活躍する実力派俳優マイク・シャイナーを迎えますが、マイクの才能や身勝手な言動にリーガンは精神的に疲弊していき…。 本作を手がけたのは『21グラム』 2003 や『バベル』 2006 などのシリアスな人間ドラマを多く描き、また『レヴェナント : 蘇えりし者』 2015 で2度目の監督賞を受賞したメキシコの映画監督アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ。 主役のリーガンを演じたのはかつてバットマンを演じた俳優マイケル・キートンです。 バットマンで高い評価を得たキートンでしたが、その後はあまり出演作に恵まれませんでした。 しかし自分と似た境遇である俳優を演じた本作によって、キートンもまた返り咲いたのです。 キートン以外のキャスティングにも皮肉めいたユーモアが感じられます。 劇中で売れない女優レズリーを演じるのはナオミ・ワッツ。 彼女はニコール・キッドマンと同期でありキッドマンが売れていく一方で、自分はB級映画への出演で食いつなぐ苦しい日々が続いていました。 ブレイクのきっかけはデヴィッド・リンチによる『マルホランド・ドライブ』(2001)。 この時もワッツは売れない女優役を、のちに出演した『キング・コング』 2005 でも失職した女優役と、何度も似た役柄を演じているのです。 映画『バードマン あるいは 無知がもたらす予期せぬ奇跡 』のあらすじとネタバレ C 2014 Twentieth Century Fox. All Rights Reserved. 俳優リーガン・トムソンは、かつて『バードマン』という3本の映画でヒーローキャラクターを演じ大スターになりました。 リーガンは時折、現在の自分を嘲るもう1人の自分の声=バードマンに悩まされました。 1人になるとバードマンが現れ、ハリウッドへ戻れと煽り立てるのです。 リーガンは自分の存在意義を見出しまき直しを図ろうと、ブロードウェイで舞台をしようと考えます。 レイモンド・カーヴァーの短編小説『愛について語るときに我々の語ること』を自ら脚色・演出し、主役を演じることにします。 長年の親友の弁護士ジェイクにプロダクションを依頼し、共演者には自身の恋人であるローラを、ブロードウェイの舞台に初出演する女優レスリーを、自身の付き人兼アシスタントには薬物依存症から回復したばかりの娘、サムを起用しました。 しかしリハーサル中に俳優が負傷、代役としてブロードウェイで活躍するマイクが選ばれます。 俳優として卓越した才能を持つマイクですが、身勝手なマイクの言動は周囲を振り回し、3つのプレビュー公演のうち2つは台無しになってしまいました。 レズリーとベッドインするシーンではマイクは勃起し、リーガンの熱演もよりもそちらの方が話題を集めてしまいます。 翌日のニューヨークタイムズではマイクのインタビューが一面を飾っており、リーガンの記事は後の方へと追いやられていました。 リーガンにとってマイクは目の上のたんこぶ的存在、バードマンの声はますます鮮明になり、リーガンは精神的に追い詰められていきます。 最後のプレビュー公演中、リーガンは喫煙のため外へ出たものの偶然ドアが閉ざされ、衣装姿のまま外へ閉め出されてしまいます。 着ていたローブがドアに挟まったためリーガンは仕方なくローブを脱ぎ、ブリーフ姿でニューヨークの大通りを歩いて劇場の入口を目指しました。 何とかラストシーンまで終えるもリーガンがブリーフ姿で歩く様は一般人によって撮影され、その映像はYouTubeで100万回以上も再生されてしまいました。 こうして不本意な要因ではありますが、リーガンの姿は話題を呼ぶことになったのです。 本公演の前夜、リーガンは舞台近くのバーで、辛口の女性批評家タビサから舞台を酷評すると宣言されました。 タビサの発言力は強く、彼女の酷評は舞台の打ち切りにつながるものです。 タビサはリーガンに「あなたは役者ではなく、ただの一般人」と言い残してバーを去ります。 呆然とし、そのまま道端で夜を明かしたリーガン。 翌朝、リーガンはとうとう実態を持って現れたバードマンの声で目覚めました。 バードマンは、リーガンを再びハリウッドの大作映画の世界へ向かわせるべく、彼を虚構の世界へ誘います。 「お前なら出来る」と言われたリーガンはビルの屋上から飛び入り、そのままニューヨークの空を飛びまわりました。 そして迎えた夜の本公演。 リーガン扮するエディの拳銃自殺で幕切れとなるラストシーンで、リーガンは観客の前へ立ち、拳銃を頭へ突きつけて発砲と同時に倒れました。 本物の血が飛び散り、観客はざわめいたものの大きなスタンディングオベーションを送りました。 その後、リーガンは病室で目を覚まします。 彼は頭ではなく鼻を吹き飛ばしており、一命をとりとめたのです。 新聞には銃を向けるリーガンの姿がプリントされており、タビサによって「小道具と本物の銃を間違えた」と事件を報道されていました。 また彼女は「無知がもたらす予期せぬ奇跡」と絶賛、舞台を新しい芸術様式を作り出したと讃えていました。 包帯を取ったリーガンが鏡を見ると、自分の鼻はさながらバードマンのように鋭く変貌していました。 窓の外にはバードマンがおり、リーガンは引き寄せられるようにヘリに立ちます。 消えた父親を探して病室に入ってきた娘のサムは開け放たれた窓にかけより下をみますが、リーガンの姿はどこにもありません。 サムは空を見上げ、微笑むのでした。 映画『バードマン あるいは 無知がもたらす予期せぬ奇跡 』の感想と評価 C 2014 Twentieth Century Fox. All Rights Reserved. 本作は約2時間、ほぼワンカットに見える手法で構成されています。 パンツ一枚で道を走らなければいけないシーン、バードマンが空からやってくるシーン、なぜか別の場所へ移動していたりと、リーガンが見えている幻想がワンカットで現実と同じ場面に同居していることによって、観客は彼が妄想と現がごっちゃに見えていることを知ることができます。 リーガンが起死回生を図るために上演することにした舞台『愛について語るときに我々の語ること』。 この舞台はある夫婦の愛と自己破壊を描いています。 リーガンも妻とは離婚し、ドラッグ依存から回復したばかりの娘サムは自分に辛く当たる始末。 おまけにリーガンはサムが俳優マイクとキスしているところを目撃します。 劇のラストではリーガンが演じる主人公が友人と妻が不倫をしている現場を目撃し、誰にも愛されていない事実を知り自死を図ります。 リーガンは『愛について語るときに我々の語ること』の主人公と、全く同じ状況にいるのです。 C 2014 Twentieth Century Fox. All Rights Reserved. この『バードマン』の副題の邦題は『 無知がもたらす予期せぬ奇跡 』。 しかし原題の『 The Unexpected Virtue of Ignorance 』は、『無知がもたらす予期せぬ美徳』という意味なのです。 毎日毎日自分の存在意義を考え、どん詰まりの状況で舞台を行い、そして最後には苦悩から解放されたリーガン。 娘サムは空を見上げ、嬉しそうに微笑みます。 イニャリトゥ監督作品に一貫して描かれているテーマは絶望的な状況の中での家族愛、失った息子、娘との関係。

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バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡) : 作品情報

バードマン あるいは

『 バードマンあるいは(無知がもたらす予期せぬ出来事)』と『 龍三と七人の子分たち』の二本の映画の関連性はない。 たまたま、久方ぶりに新作映画を続けて観たのである。 関連するといえば、かつて名を鳴らした人が埋もれていて、再起をかけて発奮するということであろうか。 『 バードマンあるいは(無知がもたらす予期せぬ出来事)』は、かつて「バードマン」という映画で名声を得たスターが、今は映画の仕事もなく、舞台演劇の役者として再起をかけている。 その主人公役が、マイケル・キートンで、彼は映画『バットマン』で主役のバットマンを演じたため、そのこととも重なって評判をとり、演技力も改めて認められた。 「バードマン」は、<鳥男>という意味らしく、主人公のリーガン・トムソン(マイケル・キートン)は、落ち目となっても常にその<鳥男>に付きまとわれている。 「バードマン」としての華やかなりしころの想いを<鳥男>は運んできて今の彼を苦しめる。 映画の中では、彼が望むと物が動いたりするが、それは、彼の心の妄想を表す。 何とかブロードウェイでの舞台を成功させたいと必死なのであるが、その舞台裏は、お金のこと、共演する役者のこと、劇評家のことなど難問山積みである。 さらに、離婚後引き取っている薬物依存症の娘(エマ・ストーン)をそばに置き、付き人として手伝わせている。 役者の一人が装置の落下で怪我をして、新しい役者・マイク(エドワード・ノートン)を雇う。 これが上手いのであるが、アルコール依存症である。 怪我をした役者には保障金を請求され、マイクは舞台上で勝手な演技をする。 追い込まれたリーガンは「バードマン」となって自由に空を飛ぶ。 そして彼はある決心をする。 舞台のリーガンは迫真の演技を見せる。 しかし、それは現実には失敗に終わる。 現実には失敗するが、彼はそこで、<鳥男>と決別して飛べたのだと思う。 娘が、ラスト「パパったら!」とにっこり笑うのがその証と思う。 それが、長いタイトルの『(無知がもたらす予期せぬ出来事)』と解釈した。 これまた、解釈の分れる終わり方なのである。 <バットマン>や<バードマン>(こちらは予想であるが)の奇跡的はハッピーエンドに重ねた。 マイケル・キートンとエドワード・ノートンのプライドの対決も面白い。 思わぬ災難からリーガンのブリーフ一枚で街中を歩く姿がネットで公開となり、アクセス数が膨大な数となるのが現代のネット世界を象徴している。 舞台裏をみせつつ、心理を超常現象にしているところが技巧的である。 映画『バットマン』も思い出す。 どれが『バットマン』映画の中で一番かは、これまた好みがありケンケンガクガクである。 『 龍三と七人の子分たち』は、ただ笑って楽しむ、任侠おじいちゃんのファンタジーであり、任侠映画へのオマージュである。 兄貴分の龍三(藤竜也)とマサ(近藤正臣)は時々逢っている。 昔の仲間のはばかりのモキチ(中尾彬)が詐欺行為の現場で、若い者に暴力を受けているのを助け、龍三がオレオレ詐欺に騙されたこともあり、組を復活させることにする。 昔の仲間にハガキを出し、上野の西郷さんの像の前で一人、また一人と現れるのも見どころの一つである。 早打ちのマック(品川徹)、ステッキのイチゾウ(樋浦勉)、五寸釘のヒデ(伊藤幸純)、カミソリのタカ(吉澤健)、出来すぎの場面で登場する神風のヤス(小野寺昭)で、<龍三+七人>となるのであるが、この元ヤクザおじいちゃんたちの親分の決め方が面白い。 それを記録する飲食店の店主の職業意識も笑わせる。 これは、北野武監督が楽しんでアイデアをドンドンはめ込んでいったオモチャ箱である。 『バードマン』のリーガンがブリーフ一枚なら、龍三親分はもっとド派手である。 案外繋がるものである。 どういうわけかことが起きると、京浜連合の若い者たちと繋がってしまう。 因縁の対決である。 騒動のきっかけは、はばかりのモキチである。 この方、落語の『らくだ』のかんかんのうを踊るラクダの役目もし、何回も死んでしまう任侠映画の役者さんをも連想させる。 はばかりながら、<はばかり>という言葉も死語に近いかも。 バスで商店街を走る場面は、終戦直後の闇市を走り回るところを、老人だから、バスに乗せてしまおうと考えられたかどうかは謎である。 所どころに挟まっているセリフが、ㇷ゚ッ!と吹き出してしまう。 北野監督は遊びながらも、任侠おじいちゃんを格好よく収めてくれる。 マルボウ担当の刑事役者として、仕方がないな格好悪くはできないしと、登場するのである。 最後まで<龍三と七人>は恰好よく任侠を貫けるのである。 どうしてこの映画を観たかというと、世田谷美術館で『東宝スタジオ展 映画=創造の現場』を見たのであるが、範囲も広く展示方法に心踊らなかったのである。 最後に、砧の東宝スタジオを使用したということであろうか、新作の映画のポスターがあり、そこに、『龍三と七人の子分たち』のポスターが目に止った。 『オーシャンズ12』? 北野武監督? 情報つかんでなかったな。 これは見ようと思ったのである。 近日公開の同じようなポスター映画の予告をやっていたが、ポスターに関しては若手のほうが一歩遅れを取った感がある。 これは、えっ!と思ったときが勝負である。 昔を忘れられないおじさんたちの困った<八人>であるが、人にやらせるのではなく、自分たちが鉄砲玉になるのであるから、威勢がよくても笑って済ませられる。 カテゴリー: 作成者:.

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