大槻 玄沢。 大槻玄沢の画像、名言、年表、子孫を徹底紹介

大槻磐渓

大槻 玄沢

JR前の大槻三賢人像 正面向かって左側の大槻磐渓 時代 後期 - 初期 生誕 元年() 死没 11年(、享年78) 改名 六二郎・平次郎・平次・磐渓・磐翁 戒名 尚文院愛古磐叟居士 墓所 主君 藩 西洋砲術指南取扱 学頭 藩主学問相手近習格 等 氏族 江戸大槻家 父母 父: 継母: タホ 兄弟 ・しん・みの・?・いな・ 磐渓 妻 光・淑・悦 子 春・順之助・陽・・・雪・和歌 大槻 磐渓(おおつき ばんけい、元年() - 11年())、名は清崇、後期からにかけて活躍した。 文章家としても名高い。 の、学頭であった磐渓は、幕末期の仙台藩論客としての結成に走り、後はとして謹慎幽閉された。 父はの。 子にと(で『』編者)がいる。 親戚に明倫養賢堂の学頭、がいる。 生涯 [ ] 生い立ち [ ] (享和元年)、木挽町の幕臣浦上氏の邸内で生まれる。 父・は、彼を六番目の次男であったことから 六二郎と名づけた。 3歳の頃、母がで没しているが、のち後妻タホの手で育てられた。 1816年(文化13年)、して 平次郎と称する。 この頃、父・玄沢とその蘭学仲間・が雑談中、を盛んにするために玄沢が訳した蘭語()を、当時の学術用語である体の文章に翻訳させるため、磐渓をとして育てようと話し合ったというエピソードがある。 実際に磐渓は、漢学者としての道を辿ることになる。 また、父玄沢の医学の師匠・に跡継ぎが無く、玄沢に磐渓をに欲しいと頼んだことがある。 玄沢はこの話をするため息子を呼んだところ、磐渓は頑なにこれを拒んだ。 師匠家の頼みであるため、玄沢は説得を続けたが磐渓は結局折れず、後に玄沢は「あれはなかなか見所がある」と嬉し泣きしたという。 学問修行 [ ] 現在は泰心院の山門として移築された正門 磐渓はここで学び、幕末には学頭を務めることになる 磐渓の本格的な学問修行は、、16歳のころ(昌平黌)でを務めるのに入門したことから始まる。 ここで磐渓は高弟のから文章を、から経学を学んだ。 葛西は父の玄沢と懇意でもあった。 翌、17歳で昌平黌に入寮し、27歳までの11年間、(断続的ではあるが)ここで学び続けることになる。 春、父の弟子・を伴って、初めて郷里の 中里村へ帰郷し、一族のや、仙台藩の・を訪ねている。 また、江戸から大槻家を訪ねていたとここで初対面を果たした。 22歳の頃、仙台藩校のに入る。 ここで学頭を務める親族のに抜擢され、指南役見習となった。 しかしこの職は普通30-40歳程度の学者が就く職であり、これを行き過ぎとみた父玄沢の意見により、翌、磐渓は江戸の昌平黌に戻った。 ところが、翌にはまた明倫養賢堂へ戻っている。 また、このころの学友にがいる。 関西遊学 [ ] このように、郷里の東北には縁があったものの、未だを越えたことがなかった磐渓は、、27歳の頃、父の取り組む蘭学の修行を念頭に、・を経てへの遊学を決意した。 この旅程が、彼の旅日記『西遊紀程』にまとめられている。 この旅程で磐渓は多くの学者達の教えを受けながら長崎へと向かったが、当時一介の書生であった磐渓が高名な学者達と対面出来たのには、有名な蘭学者・大槻玄沢の息子であったという要因も無視できない。 、でのとの出会いは特筆に値する。 ここで磐渓の漢文を見た山陽は、磐渓に「後来有望なり」との評価を与え、酒杯を共にすることとを望んだ。 ここで頼山陽は、完成間近の『』の原稿を磐渓に見せた。 しかし酔った磐渓は、あろうことか大学者である頼の原稿に対して批評を始めてしまい、頼の一喝をくらってしまう。 しかし、頼も磐渓の批評を気にしていたのか、彼の指摘を受けて『日本外史』構成を改定した。 磐渓は後にこのことを「自分の放言も、暗に山陽を助けたことになった」と述懐している。 また同日、山陽の弟子であり、美濃蘭学の祖と呼ばれるの娘・とも出会っている。 細香に聡明さと柔和さを感じた磐渓は、後に彼女への思いを漢詩「和細香女史見寄三首」に書き残しており、そこには彼女への慕情が読み取れる。 の宿にて、で父玄沢が病に倒れたとの知らせを受け、急遽長崎遊学を中断し、急ぎ江戸へ帰還した。 玄沢は既にに没していた。 翌7月、改めて蘭学修行のために長崎遊学を実現させた。 しかし、当時長崎はの影響で騒然としており、オランダ人との接触ができなかったため、結局蘭学修行は出来ずに翌年江戸に帰った。 こうして磐渓の蘭学修行は実現せず、また、頼山陽の賛辞を受けたこともあり、最終的に蘭学ではなく漢学を志すことになった。 ただ、この長崎滞在中にと出会っていたことが、後にひとつの転機となった。 仙台藩士時代 [ ] 、32歳のころ、磐渓は学問修行が認められ、仙台藩の正式な藩士(江戸定詰)となり、兄・の庇護から離れ一家の主人となった。 12月に妻・光(みつ)を迎えたが、虚弱なため翌年没し、家庭生活はわずか半年に終わった。 、35歳で再婚し、淑(よし)を娶った。 よしとの間には3男4女の子宝に恵まれ、この中に次男・や3男・がいる。 にが流行すると、このせいで長男・順之助を亡くしてしまう。 天然痘の脅威に強い関心を抱いた磐渓は、の研究で功のあった蘭方医・の助言に従い、子ども達に種痘を試みた。 これは、まだ迷信の強い江戸で悪評判を呼び、「大槻はオランダ気違いで子どもを殺す」と非難を呼んだ。 砲術修行 [ ] 、の(現在の)で、の指導のもと洋式軍の訓練が行われた。 砲撃演習も行われ、これを見学していた磐渓は「漢学を本業、西洋砲術を副業として文武両刀たらん」と西洋砲術を学ぶ決意をする。 、秋帆の門人・から西洋砲術の皆伝を受け、2月には藩から「西洋砲術稽古人」を命じられた。 11月にはが西洋式の試し撃ちを行ったが、磐渓はこの手助けを行っている。 11月には藩から「西洋流砲術指南取扱」を命じられ、12月にに入門している。 開国論 [ ] ペリー一行の上陸 また、この頃から磐渓は開国論を唱え、には・へ開国論「献芹微衷」(けんきんびちゅう)5編を建白した。 彼の主張は 親露開国論であり、以後、知識人の間ではイメージの悪かった・ではなく、古くから交流のあったに接近しつつしようという考えである。 そもそも、家柄により幼いころから異国の文化に触れる環境で育ったため、磐渓には西洋人を「夷敵」ととらえる発想はなかったようである。 しかし、当時の世論は圧倒的にが優勢であり、磐渓の態度は多くの非難を浴びた。 したには、幕府が諸藩に対応の助言を求めたことに応じ、藩命で見学のため2度へ出張している。 その後に開国論をまとめた「米利幹議」(めりけんぎ)、「魯西亜議」(ろしあぎ)2つの外交建白書を著した。 わが国には自国の戦いでありますが、彼らには補給線がありませんから、戦争にはならないでしょう。 万里の波濤を越え、断固たる決意で渡来したからには、少しは御聞届の必要がありましょう。 (後略)」(加藤祐三『幕末外交と開国』講談社、2012年)などであるという。 にがに再来航すると、藩命を受けて横浜の日米応接所に出向いた。 応接所警備を任されていた参謀長の佐久間象山の助けもあり、仕事ははかどり、その過程で彼は漁船に乗って黒船に近づき、中国人通訳・に漢詩を送ったこともあった。 この話を聞きつけたは、に乗り込むための奇策を磐渓に相談したというエピソードがある。 後に松陰はへの密航事件をとがめられ、投獄されている。 戊辰戦争期 [ ] 明倫養賢堂学頭 [ ] 9月、磐渓は仙台への帰還を命じられている。 これには、藩の情報通として藩主に重宝されている磐渓を暗殺されたの二の舞にはさせたくないという意図があった。 翌10月、による幕府への推挙も辞退して帰国の途に着いた。 幕末の仙台藩においては、討幕派の・・らと、佐幕派の・・・そして大槻磐渓らとの激しい抗争が展開された。 、将軍が上洛すると、仙台藩は朝廷からの藩単独での上洛令と、幕府からの将軍に随従する形での上洛令との、矛盾する2つの命を受けた。 いずれをとるかで両派の間で激しい論争が起きたが、藩主は、佐幕派の意見を受け入れて将軍に随伴して上洛した。 磐渓もこれに随行し、攘夷論が沸騰する京都において捨て身の覚悟で開国論を主張するつもりであった。 しかし、彼の身の安全を心配した但木土佐のはからいにより、別命を受け待機することになる。 その後藩校の明倫養賢堂で学頭添役(副学頭)として教鞭をとった。 10月、前学頭・大槻習斎の死を受け明倫養賢堂の学頭にも就任し、その発言はの執政に対しても大きな影響力を持った。 実際に、戊辰戦争期でのにおける諸戦争を指導した仙台藩の但木土佐、玉虫左太夫などは磐渓の教え子に当たる。 ところが、明倫養賢堂の改革案などが部下の反対にあうなど、経理運営は上手くいかず、に陥ってしまう。 には病気を理由に学頭を辞して隠居するが、2月に藩主の「学問相手近習格」に任ぜられ、再び出仕する。 3月には林学斎から再び幕府への推挙があったが、またも辞退している。 主戦論 [ ] 奥羽越列藩同盟旗 、を機に戊辰戦争が勃発すると、仙台藩には追討の命が下った。 仙台藩ではこれに対処するため、への建白書が起草され、磐渓がこの草稿を書いた。 既に東征軍が出発していたため、建白書は時期遅しとして討幕派の藩参政・の抑止にあい朝廷に届けられずに終わったが、これが東京の「」に掲載され、薩長を憤慨させた。 旧知の仲であるはこの建白書を見ると磐渓が書いたものに違いないと断定し、これが後の幽閉につながっている。 閏4月11日、に奥羽14藩の代表が集まり、盟約書()が審議されて奥羽列藩同盟が発足した。 仙台藩が奥羽列藩同盟の盟主になると、論客として各藩の参謀と関わりを持った。 率いる仙台藩の洋式歩兵隊に「」という名を与えたのも磐渓である。 なお、磐渓の影響を受けた星も以前は過激な攘夷論者で、開国論を唱える磐渓と但木土佐の暗殺を謀ったところ、逆にその愚を諭され、脱藩したという逸話がある。 戦犯に [ ] 9月、仙台藩は降伏し、戦争は敗北に終わった。 磐渓は中里村の大槻宗家で逮捕され、仙台へ護送され、翌4月に監獄入りとなった。 この間、一度の尋問も罪状の申し渡しも無かった。 後に明らかとなる罪状は、以下のようなものであった。 仙台藩から朝廷への建白書の執筆• 盟約書の執筆• 令旨の執筆• プロシア国領事宛書簡の執筆 晩年の大槻磐渓(中央) 左は大槻如電、右は(1874年1月) 戦後の仙台藩は新政府から勤王派と評価されたかつての倒幕派が中枢を占め、戦争を主導した佐幕派への報復的戦後処理が行われた。 この戦後処理では存続が許されたものの、主戦派の指導者、・ら磐渓の教え子はに処せられた。 仙台藩の戦後処理に当たった議事局議長は、藩の学問主導を巡り大槻家と激しい敵対関係にあった。 良佐の父・は、と明倫養賢堂の主導権を巡り敗れた人物で、良佐はその仇を磐渓に報ずることを公言していた。 磐渓もまた斬首刑者のリストに入っていたが、高名な漢学者であり、さらに老体であることなどからとなった。 元旦には病を理由に仮出獄を許されが、これは磐渓を先生扱いしていた牢の医師・同室者・獄吏らとの謀りごとであり、本人はいたって健康、出獄当日には大酒を飲んだという。 には謹慎も解かれ、晴れて白日の身となった。 なお、政府から初めての尋問があり、これに答弁書を出したのはのことで、入獄から2年後のこのときになって初めて自分の罪状を知った。 5月には東京に移住した。 その後陸軍から出仕を勧められたが、「亡国の臣何の面目あって朝班に就くべき」としてこれを固辞した。 晩年 [ ] 戦後の磐渓は、江戸で静かに余生を送った。 以前より西洋文明への関心が高かった磐渓は、で様変わりする世相を興味深く見守りつつ暮らした。 酒に酔うと「それみろ、俺が攘夷論の火のような中で、開国せにゃならぬと言ってきた。 その通りであろう。 あの時、鎖国攘夷を唱えた者は、本当に世界の形勢を知らぬ大たわけだ」と述べることがあったという。 この頃は父・玄沢への思いを募らせ、には玄沢の行った新元会()を再び行ったり、には玄沢没後50年忌に際し、「追遠会」を行うなどしている。 なお、この頃はやとの交友が目立つ。 、午後4時ごろ世を去った。 享年78。 父・玄沢、兄・磐里らと同じく、のに葬られた。 著作 [ ] 『献芹微衷』 (けんきんびちゅう)。 1849年。 「海堡篇」「陸戦篇」「海戦篇」「隣好篇・上」「隣好篇・下」の5編からなる。 ・に建白された、磐渓の開国論をまとめた最初のものである。 島国である日本の海防を説き、親ロシアよりの開国を主張している。 『米利幹議』『魯西亜議』 (めりけんぎ)(ろしあぎ)。 1853年。 『米利幹議』は、に際して浦和で見聞きしたことを報告したもの。 『魯西亜議』はがに来航した際に書かれた建白書。 『献芹微衷』同様、ここにも磐渓のロシアびいきが現れている。 『近古史談』 年間の成立。 「織篇第一」「豊篇第二」「徳篇第三上」「徳篇第四下」の4巻からなる。 の活躍と、それに関する磐渓の論評を記したものであり、広く読まれのネタにもなった。 の漢文教科書にも採用されている。 磐渓には、ペリーの来航以来、動揺する世情を憂い、過去の英雄達の行動を学ぶことで士気を鼓舞する意図があった様である。 『孟子約解』 (もうしやっかい)。 漢学者として書いた注釈書。 関連人物 [ ] 父・玄沢の代から存在した学者間のネットワークは、磐渓にとって人脈構築の大きな助けになったといえる。 また、磐渓は酒豪としても知られており、その人脈にはいわゆる「酒飲み友達」も多かった。 大槻家 [ ] 大槻玄沢以後、大槻家は優れた学者を何人も輩出し、「西にあり、東に大槻氏あり」と称された。 実際、仙台藩の学業は、明倫養賢堂をはじめ大槻家の人材が多く担っている。 また、特に有名な大槻玄沢・大槻磐渓・大槻文彦の3代は、「 大槻三賢人」と呼ばれた。 玄沢の叔父・清慶の家系がの大槻宗家にあたり、さらにそこから仙台藩の職を歴任した大槻平泉の 仙台分家、玄沢ら江戸に常駐した 江戸分家に分かれた。 ・の弟子。 蘭学興隆期の総帥格で、青年期の磐渓は「玄沢の息子」としても知られた存在であった。 玄沢はロシアに漂流し帰還したと交流があり、またの遣日使節で、帰国した一行によるロシア情勢を伝えた『環海異聞』などの著作があり、これが後に磐渓の新露開国論に影響したと推測される。 ・ 長男は夭折したが、次男如電は様々な方面に才能を発揮するタイプで、博学家として多くの著作を残した。 三男の文彦は言語学者として知られ、1つのことを地道にやり遂げる性格で、後に生涯をかけ日本初の国語辞書たる『』を編纂した。 兄弟2人とも、投獄後の父・磐渓の名誉回復にも奔走した。 ・ 同じ大槻一門。 藩職を担った仙台大槻家。 平泉は長くの・の学頭を務め、玄沢の勧めにより蘭学の教育も導入するなど、藩校の近代化に尽力した。 その息子の習斎も、一時期学頭を務めている。 子孫 孫の幸(さち)は中村勝麻呂に嫁ぎ、曾孫にの後妻となった静 しず 、その弟に名誉教授で英国憲政史のがいる。 は義母の幸が語る言葉や時代の様子が歴史そのものであったとしている。 家系図 [ ] 江戸大槻家 仙台大槻家 大槻宗家 師事した人物 [ ] ここでは、上記「生涯」で触れなかった人物のみ取り上げる。 と称された書家。 磐渓は葛西因是の紹介で巻を知り、21歳の頃、彼から書を習った。 息子の文彦によれば、門人というわけではなく、個人的な関係で書を学んだ様である。 巻もであったため、磐渓とは酒宴仲間でもあった。 漢詩人。 磐渓は彼から漢詩を学んだ。 仙台藩の人物 [ ] 父・玄沢高弟の。 大槻宗家の清臣の長女・恵和子を娶ったため、大槻家と縁戚関係がある。 磐渓より12歳年長にあたり、磐渓にとってはよき兄貴分であった。 磐渓17歳の頃の東北旅行にも同行し、非常に親しい関係が長く続いた。 仙台藩医学校蘭方外科助教も務めている。 ・ 戊辰戦争期の仙台藩の中核・主戦論者。 共に磐渓の教え子で、彼の佐幕思想・開国論に大きな影響を受けた。 両者とも戦後斬首刑に処せられている。 仙台藩士。 以前は過激な攘夷論者で、開国論を唱える磐渓と但木土佐の暗殺を謀ったところ、逆にその愚を諭され、脱藩したという逸話がある。 後に仙台藩の洋式歩兵部隊・を率い、・らとともにまで戦い抜いた。 儒学者。 直接の弟子ではないが、磐渓に影響を受けたと彼自身が語っている。 磐渓がの学頭時代、「指南役見習」を命じられたが、上司の磐渓とは方針が対立した。 尊攘倒幕論者でもあったため後に磐渓の批判に回り、敗戦責任を追及したり、磐渓をかばう息子達に非難を浴びせることもあった。 その他交友関係 [ ] の門下で砲術を学んだ同門。 その後も付き合いは続いており、磐渓は開国論の先達者として象山を尊敬していた。 互いに大酒飲みで天下を語ることが好きだった彼とは馬が合った様である。 また、(象山の弟子)に磐渓を紹介したのも彼だと思われる。 鯨海酔侯と呼ばれた大酒飲みで、磐渓とは詩作・酒飲み仲間であった。 しかし、2人の仲は戊辰戦争に前後して大きく変わってしまう。 、仙台藩が朝廷へ提出した建白書を見た容堂は、「これは磐渓が書いたものに違いない。 その罪、断じて許すべからず」と断じ、これが戦後の磐渓逮捕につながった。 また、下獄された磐渓を救うことも拒否したという。 維新前後からの交遊関係があった。 容堂とは異なり、晩年までその付き合いは続いている。 松平春嶽は兄。 磐渓とは明治初年から交遊が続き、、磐渓はの田安家別邸に転居している。 また、息子は磐渓の門人となり、漢学の講義を受けた。 維新前からの付き合いで、従者としてで渡米した際も磐渓に相談があったという。 また、息子のとも付き合いが続いた。 生前に面識があったかどうかは定かではないが、徳川軍が北上し、仙台に入っていた時期、主戦論者の磐渓と会っていた可能性は否定しきれない。 また、の土方歳三像に添えられている「殉節両雄之碑」の撰文は磐渓が行っている。 人物・評価 [ ] JR一関前に設置された大槻三賢人像 家系の影響から、幼い頃より高名な人物と多く交わる機会が多く、エリート(やや揶揄した言い方すれば「お坊ちゃん」)として育ったことから、性格は鷹揚で、暗さは無かったという。 天下国家を語ることを好み、酒と書をこよなく愛した。 英雄志向が強く、この時代では珍しく、に注目していた一人でもある。 磐渓自身も砲術修行を行っており、砲兵から皇帝にまで上り詰めたナポレオンに興味を持ったのであろう。 が圧倒的優勢を占めていた幕末期においてを唱えていたことから、開明的な思想の持ち主であったといえる。 この開国論には、父・玄沢のの影響もあったことは確かであろうが、ら幕府中枢から得た確度の高い海外情報にも基づいていたのも事実である。 彼の佐幕論も、単なるの延命策やとは一線を画すものであった。 息子の文彦によれば、その理想は天皇親政ではなく、将軍家を宰相とするを想定していたようである。 しかし、思想家・ブレーンとしては有能であった半面、の運営に失敗するなど、実務家の能力には欠けていたようである。 また、幕末の仙台藩においては主戦論の理論的主導者であったため、など、その敗戦責任を厳しく問う声もあった。 磐渓の影響を受け、幕末の仙台藩執政を担当したも、戦後「我は儒者の言を用いて誤りたり」と、暗に磐渓を批判している。 美しい漢文の文章には、の賞賛を受けるなど、当時から定評があり、の活躍を記した『近古史談』は、の漢文の教科書としても使われていた。 には、のの手により、前に磐渓を含めた大槻三賢人の胸像が建立された。 脚注・出典 [ ] []• 大島 p20• 大島 p25• 葛西因是(健蔵)、松崎慊堂(退蔵)は「林家の五蔵」と呼ばれた高弟たちであった。 その他の3人は、平井直蔵、大郷金蔵、(捨蔵)。 大島 p30-33• 大島 p50• 高田 p67• 大島 p72-74• 大島 p163• 大島 p102-103• 阿曽沼 p47• 大島 p164-167• の「西遊日記」には、滞在中に「献芹微衷」を読んだことが記されている。 大島 p248-250• 庄司「大槻磐渓伝」• 一関市博物館 企画展冊子 p36• 一関市博物館 企画展冊子 p36• 大島 p271• 大島 p286• 大島 p289-290• 一関市博物館 企画展冊子 p36• 大島 p295• 大島 p338• 大島 p117• 『ダ・ダ・スコ』「建部清庵と大槻一族」p8• 朝日新聞『聞蔵IIビジュアル 人物データベース』• 佐波正一、佐波薫、中村妙子の『三本の苗木 キリスト者の家に生まれて』• 『ダ・ダ・スコ』p25-29• 大島 p24・190• 阿曽沼 p38• 大島 p195-196• 阿曽沼 p57-58• 阿曽沼 p56• 大島 p204-205• 大島 p205• 大島 p207• 阿曽沼 p57• 大島 p169• 大島 p247 参考文献 [ ] 書籍• 『近古史談 本文篇』 菊池真一編、<索引叢書40>和泉書院、1996年• 『近古史談 注釈索引篇』 <索引叢書47>和泉書院、2000年• 若林力 『近古史談全注釈』 、2001年• 大島英介 『大槻磐渓の世界 昨夢詩情のこころ』 宝文堂、2004年(主に本著を参照)• 『遂げずばやまじ 日本の近代化に尽くした大槻三賢人』 、2008年• 『仙台戊辰戦史 北方政権を目指した勇者たち』 、2005年• 『大槻磐渓 東北を動かした右文左武の人』 一関市博物館企画展冊子、2004年• 阿曽沼要 『大槻三賢人』 高橋印刷株式会社、2004年、私家版• 『言葉の海へ』 MC新書、2007年/新潮文庫(新版)、2018年• WEBマンガ「オレとシロバカ」(作ひげばあさん)連載中 論文• 庄司荘一「大槻磐渓伝」、『高野山大学論叢』22巻所収、1987年• 「学者の群像『大槻一族』」「建部清庵と大槻一族」、タウン情報誌『ダ・ダ・スコ』第70号所収、2005年 外部リンク [ ]• :大槻三賢人に関する展示がある。 2004年には企画展「大槻磐渓 -東北を動かした右文左武の人-」が催された。 学職 先代: 学頭 1865年10月 — 1866年4月 次代:.

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橋本宗吉

大槻 玄沢

来歴 [ ] 生い立ち [ ] 祖先は四国ののであったと伝えられている。 宗吉の父の代に大阪にでてきた。 宗吉が阿波の生まれか、大阪の生まれかは不明である。 傘屋で紋書き職人をしていたが、記憶力の良さから評判となり、医者のに見出される。 小石は、最新の蘭学書を翻訳するために、オランダ語に精通した者を探していた。 小石は、天文学者であったと相談し、両名が費用を負担して、橋本宗吉を江戸へ送り、オランダ語を学ばせることにした。 寛政2年(1790年)、橋本は江戸に出ての門弟となった。 この事情については、の著『』にも以下のような記述がある。 和蘭之言大都六万、而して則ち之をなすこと四ヶ月、己に能く四万語を暗記す。 乃ち還って浪華に帰す。 — 、蘭科内外三法方典 つまり小石元俊の記述によると、橋本は4ヶ月の江戸の滞在でオランダ語4万語を暗記した後、大阪に戻ったことになる。 小石元俊と間重富に従事し、彼らの指導の元、蘭学書の翻訳を行った。 また彼らの仕事の手伝いをしていたと考えられる。 間重富の『月食観測日記』の寛政10年(1798年)10月16日の項には、「橋本宗吉、蘭学者、兼テ測量ノ時ハ手伝イタスモノナリ」と記されている。 絲漢堂 [ ] 橋本が従事していた小石元俊と間重富が相次いで大阪を離れると、寛政8年(1796年)頃、独立して医師を開業した。 享和の初めのころ、居を移し、蘭学塾「絲漢堂」 しかんどう を開いた。 このころ『喝蘭新訳地球全図』を出版した。 寛政12年(1800年)、門弟の、各務文献、大矢尚斎などと共に霞島の刑場で女刑屍の解剖を行った。 この時の解剖図は各務文献、大矢尚斎が「婦人内景之略図」として詳細に書き残された。 その後、『蘭科内外三法方典』の執筆にとりかかり、文化元年(1804年)から文化10年(1814年)までに六巻を上梓した。 序文はが寄せ、本草・薬方・製薬・治病・奇方秘術などの各部に分かれている。 静電気学への取り組み [ ] 寺子屋「旭昇堂」でのエレキテルによるの様子表した挿絵 自著『阿蘭陀始制エレキテル究理原』の付書によると、天明3年(1782年)の21歳のときに山中という人物の持っていたエレキテルを借りて実験したと書いている。 40歳のころから、の研究に没頭した。 恐らくは、オランダのボイス(Egbert Buys)が編集した百科事典「: Nieuw en Volkomen Woordenboek van Konsten en Wetenschappen 」を参考にしたと推測される。 この百科事典の中で、電気に関する記述は図版も含めて13ページほどであり、該当箇所の内容は『エレキテル訳説』として橋本宗吉の手で翻訳された。 さらにこの事典とヨハネス・ボイス(Johannes Buijs)著「: Natuurkundjg schoolboek」を参考に 、を使い自ら行った実験を載せた『阿蘭陀始制エレキテル究理原』を著した。 は『』の「越列吉低力的乙多 」の項で以下のように橋本のことを記している。 「百人おびえ」と書かれた また『阿蘭陀始制エレキテル究理原』には、のをつかった雷の実験のごとく、泉州佐野で門人の中喜久太が高さ十九間(約40m)の松の木を使い「天の火を取る実験」を行ったことが記されている。 この他にも『阿蘭陀始制エレキテル究理原』には、エレキテルで焼酎に火をつける実験、エレキテルでカエル・ネズミ・スズメなどを気絶させる実験、エレキテルの静電気で紙人形を踊らせる実験なども書かれている。 『阿蘭陀始制エレキテル究理原』には、松原右仲が作ったエレキテルと、それを参考に橋本が作ったと思われるエレキテルの説明が書かれている。 これらのエレキテルはのエレキテルと異なり、鉄衝 鉄砲の古い筒 に帯電させる方法を取っている。 に静電気を溜める実験についても記述がある。 ライデン瓶として、一升五合入るガラス瓶を用いたと記録している。 構造としては、先端に真鍮の球をつけた真鍮棒を、ガラス瓶のなかに差し込み、ガラスとの間を松脂で封じ、瓶の外側に金箔を貼って、瓶の中に金属の削り屑や水などをいれたものである。 このような実験を集めて執筆された『阿蘭陀始制エレキテル究理原』上下二巻は、伏屋素狄の序文の日付から文化8年(1811年)の秋には完成していたはずであるが、文化10年(1813年)2月に出版願が出されている。 しかし、同年8月に却下され、刊行に到らなかった。 西洋医事集成の翻訳 [ ] 橋本は蘭学書翻訳の集大成として西洋医事集成の翻訳に取り掛かった。 本書は当初、本草部24巻、薬方部5巻、製薬部6巻、治病部15巻の合計50巻とする予定であった。 推敲の末、本草編と治病編の二編として合わせて35巻までとし、更に序文や総目次などを載せた首冊1巻を加えた。 文化11年(1814年)、『西洋医事集成宝函』の出版を願い出て、文化13年(1816年)に許可が下り、文政4年まで出版が続けられた。 その後、加筆訂正が続けられたが、全巻の出版をみずに、橋本は大阪を去った。 晩年 [ ] 文政年間後半の橋本宗吉の行動はよくわかっていない。 文政10年(1827年)、橋本は、広島竹原に一時隠遁しといわれる。 ここには、橋本の弟子で娘婿が医者をしており、これに頼ったものと考えられる。 隠遁の要因は明確ではない。 有力な説として、文政10年に大阪で切支丹婆逮捕事件が起き、橋本の塾に出入りのあった藤田顕蔵がこれに連座して捕縛され 、これに身の危険を感じたからというものがある。 また、翌年に起こったを察したためという説もある。 橋本は天保元年(1829年)頃に大阪に戻った。 このため、事件への連座を恐れたというより単に、娘夫婦の呼び寄せに応じただけという説が有力である。 死去 [ ] 山本積善の『浪速人傑談』によれば、天保7年(1836年)に死去。 現大阪市中央区上本町の念仏寺にて葬儀が行われた。 念仏寺の過去帳には同寺に埋葬とあるが、墓石は立てられず、天満町の竜海寺にあったとも伝わる。 評価 [ ] 電気学の祖 [ ] 「泉州熊取谷にて、天の火を取る図説」と題された挿絵 を用いて電気実験をした人物として、が知られている。 これよりも前にエレキテルや電気を紹介した文献として後藤梨春の『紅毛話』や森中良の『紅毛雑話』がある。 しかし、エレキテルを単なる好奇や遊戯の対象として、あるいは医療用具としてではなく、自然現象の実験や観察対象として取り扱ったのは橋本が最初であるとされる。 橋本が日本の電気学の祖とされる所以である。 この論拠として橋本宗吉はエレキテルの原理を説明している。 例えば『阿蘭陀始制エレキテル究理原』のなかで「「ヱレキテル」は「ヱレクトリシテイト」と云と倶に琥珀の力と云ことなり是によりて我輩ヱレキテルを魄力車と喚びヱレキテルの気を魄力と呼ぶ」と記述している。 橋本のエレキテルを使った実験の解説は、30項目に及ぶが、治療目的の記述は2であることから、橋本がエレキテルを自然科学を探求する道具として捉えていたと推察できる。 蘭学者として [ ] 大阪の医者、山木積善が文政11年(1828年)に刊行した『海内医林伝』は、主に京都と大阪在住の医師の名簿であるが、この中で橋本宗吉の項に「大坂ノ西洋学ハ宗吉ヨリ始マル」と書かれている。 寛政10年(1799年)の11月26日が、太陽暦の1月1日にあたり、大槻玄沢の蘭学塾であるではこの日を「」と称して、祝う宴を開いた。 このときの座興として東西蘭学者の番付がつくられた。 この番付で、橋本は西の小結に挙げられている。 一方、地理の知識については、が厳しく批判している。 『喝蘭新訳地球全図』について、師にあたるがこれを入手。 大槻が門弟の山村才助に添削を依頼したのであった。 山村は、『六費弁誤』という小冊を記し、「橋本生ハ、ケダシ和蘭ノ書物ヲ読ミタル人ニハ非ズト見ユ」、「コノ地図ハ上ニ弁ズルゴトクニ夥シク臆説杜撰ヲナス」と痛烈に批判している。 翻訳者として [ ] 橋本のオランダ語の単語記憶力についてはすでに述べたような逸話が残っている。 また長崎の通詞であった、楢林重兵衛が江戸からの帰りに大阪で宿泊した際、門弟のの案内で橋本宗吉が訪ねてきた。 楢林重兵衛が取り出した一冊の蘭書を橋本は「これを読むこと流水のごとく、その解釈することあたかも宿看のもののごとし」という能力をみせ、楢林重兵衛は「(通訳者として)われら、これに衣食するものもかくのごとく敏捷なるは稀なり、愧づべし愧づべし」と述べたという。 『西洋医事集成宝函』の出版にあたり、橋本は序文で「自分は泰西医籍を好み、これまでに数部を訳したがみな小冊砕篇である。 このたび入手した医事宝函はすこぶる大部のもので、これこそ後世に伝えるに足るものである。 西洋には元来、捌必児金鐸という言葉がある。 つまり子を持たぬ人が著書を残して子孫に代えることである。 自分は不幸にして一男もないので本書を訳して上梓し世を益したい」という内容を書き残している。 医師として [ ] 蘭学では名声を馳せたが、医師として世間の評価はあまり高くなかったと推測されている。 証拠として、がに送った手紙では、医師としてうまくいっていないことが書かれていた。 また江戸時代に作られた大阪の医師番付でも、橋本の評価が必ずしも高いものではなかった。 例えば、文政3年の医師番付で橋本は、西前頭13枚目に位置されていた。 他の番付でも前頭中位に橋本を置くものがほとんどであった。 絲漢堂から東に約1kmの場所にがあった。 ここへ火傷治療のために橋本宗吉が、文政3年と天保4年に往診した記録がの『年々記』に残っている。 橋本が江戸の大槻玄沢への入門時期は諸説ある。 訳をつければ「工芸と自然の学問についての新しくて完全な事典」• 橋本宗吉と前後して、水戸藩家臣の高森観好もエレキテルの製作を行っている。 のこと• この実験を行った中喜久太は、「中家住宅」として保存されており、実験でしようされたと考えられる松の木の植わっていた場所には石碑が建てられた。 大槻如電は、『洋学年表』文政12年のところに「橋本宗吉邪教ニ連坐シテ殺サル」と記している。 大正時代ごろに天満町の竜海寺の墓標が消えたという話もある。 橋本に対して住友家は謝礼として、薬代金二百五十、肴代金二百疋などを払っている• 菊池俊彦『エレキテル全書. 阿蘭陀始制エレキテル究理原・遠西奇器述・和蘭奇器』として翻字されたものが1978年に出版されている。 底本は常陸文庫蔵書本。 出典 [ ]• 143. 148. , p. 155. , p. 158. 159. , p. 144. , p. , p. 146. , p. , p. , p. 145. 160. , p. 147. , p. 151. 40-41. , p. 148-149. 150-151. 152. , p. 51-52. 48-49. , p. 61-62. , p. 290-291. , p. 参考文献 [ ]• 橋本宗吉『和蘭始制ヱレキテル究理原』三崎省三、三崎省三、1925年。 明治前日本科学史刊行会『明治前日本物理化学史』、、1964年。 『日本科学史散歩』〈自然選書〉、1974年。 橋本宗吉『エレキテル全書・阿蘭陀始制エレキテル究理原・遠西奇器述・和蘭奇器』11、恒和出版〈江戸科学古典叢書〉、1978年。 中野操『大坂蘭学史話』、1979年。 『大阪文化史論』文献出版、1979年。 伴忠康『をめぐる人々 : の流れ』文献出版、1988年。 紫藤貞昭、矢部一郎『近代日本その科学と技術』弘学出版、1990年。 宮下三郎『和蘭医書の研究と書誌』井上書店、1997年。 若井 登、井上 恵子「調査研究論文 「ゑれきてる」考証」『郵政研究所月報』第15巻第4号、総務省郵政研究所、2002年4月、 32-45頁、。 『エレキテルの魅力 : 理科教育と科学史』井上書店、2007年。

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前野良沢・杉田玄白・大槻玄沢と解体新書の関わりとは!|気になる話題アラカルト

大槻 玄沢

医学をめぐる漢字の不思議 「膵」になるまでの試行錯誤 西嶋佑太郎 2020. 10 「膵臓」の「膵」がいわゆる国字、日本製の字であることをご存じの方もいるかもしれない。 杉田玄白や前野良沢らの手による『解体新書』から20年あまりたって、宇田川榛斎が『医範提綱』の中で使い始めた個人文字が、医師の間で使われるようになり、一般に広まっていった。 最近では、住野よる『君の膵臓をたべたい』でさらに「膵」の認知度が高まったのではないだろうか。 笹原宏之氏によって「膵」「腺」といった字が、個人文字から広がっていっていった過程が明らかになった。 そこには同時に「膵臓」というこれまでの東洋医学にはなかった概念をどう言葉に表そうかという苦心のなかで、生み出されたものの定着に至らずに消えていった数々の文字たちのことも述べられている。 今回はそういった先人たちの試行錯誤を追ってみたい。 実際に膵臓の存在をしっていたかどうかはさておき、西洋医学でいう膵臓の概念を訳したはじめは1774年『解体新書』のなかにある「大機里爾[キリール]」あたりだろう。 機里爾はキリールKlierというオランダ語で「腺」の意味だ。 つまり膵臓は「大きい腺」すなわち「腺の集まり」というわけだ。 これを先人は一字で表そうとしてきた。 ちなみに当時はまだ「腺」という字もなかった。 【 】 海上随鴎 稲村三伯 という蘭学者が作ったのがこの字だ。 これ以外にも千字以上の造字を行っておりそのうちの一つということになる。 「狧」の部分は『解体新書』などで「形、犬舌のごとし」というふうに膵臓の形について書かれた箇所が関連していそうだ。 読みは恬[てん]と似ているからか、「テン」となっている。 この字は『医範提綱』を作るための詳細版『西説医範』の一写本に用いられている以外には用いられなかった。 ほとんど海上随鴎の個人使用どまりだったということだ。 千字も一気に作られたら弟子としてもそれを受け継ぐのはさすがに難しかったのだろう。 【脧】 野呂天然という医師が用いたのがこの「脧」だ。 野呂天然は宇田川榛斎や海上随鴎と同時代の医師だが、あまり周囲から受け入れられていなかったようだ。 著書に難しい字を使うことが多いが、宇田川榛斎のような「造字」をすることについては批判をしていて、自分のはすでに使われなくなった字の再利用なのだ、というスタンスをとる。 「脧」は字書によると「小児の陰茎」や「縮む」といった意味合いだが、野呂天然は「肉(月)」と「酸」の省略形という解釈をして、酸性の分泌液を出す臓器(肉)を表す字として使おうとした。 しかし野呂天然の字の使い方は広まらなかった。 【䤚】 今回紹介する字のうちだれがいつ作ったのかはっきりしないのが、この「䤚」だ。 1805年の『医範提綱』以前に書かれたと思しき『蒲朗加児都解剖図説』に「大キリール」という訳語に混じって使われている。 この本は宇田川榛斎が書いたと思われるので、この字は宇田川榛斎が「膵」を作る前に考えた字なのかもしれない。 「機里爾」の「里」の部分を利用した字なのだろう。 ほかにこの字が見られたのは、宇田川榛斎の養子宇田川榕菴の名前で1813年の記載がある『西説医範』の一写本、1816年筆写の記載がある私蔵の『傷寒論』写本、1815年に著したとされる新宮涼庭[しんぐうりょうてい]『解体則』の写本、高野長英『漢洋内景説』があって、少なくとも数人の使用実績があったようだ。 しかし宇田川榕菴、新宮涼庭も後の著作では「膵」のほうを使用するようになり廃れていった。 【肫】 大槻玄沢が『重訂解体新書』で使ったのが「肫」だ。 『重訂解体新書』は1798年にはできていたようだが、世に刊行されたのは1826年とかなり遅かった。 大槻玄沢は膵臓をあらわすオランダ語やラテン語を「腺 キリール =肉」と「集まる=屯」という意味に分解し、「肫[トン]」という字を作ったということを述べている。 この字は字書には鳥の内臓という意味で載っていて、そのことを大槻玄沢も認識していたが、これは「偶然」としていてあくまで字を作ったという意識のようだ。 しかし、その後は本間玄調[ほんまげんちょう]『内科秘録』のなかで使用例が確認できる程度であまり広まらずに廃れていった。 刊行されたときにはすでに「膵」が広まりつつあったのが要因だろう。 【膵】 現在まで生き残った「膵」は、1805年の宇田川榛斎『医範提綱』で使われはじめた字だ。 どういう意図で作ったかまでは書いていないが、腺が集まっているという発想は、大槻玄沢の「肫」と同じで、「萃」も「集まる」という意味合いがある。 大槻玄沢と同じ発想法なのに広まり方がここまで違うのには、『医範提綱』が刊行され広く読まれたところに最大の要因があったようだ。 ほかにも、漢方医学でいう五臓六腑の三焦と関連づけて一字で表す方法(石坂宗哲『内景備覧』)もみられたが、「膵」をのぞいて定着することがなかった。 しかしここで述べた数例だけでも膵臓という臓器を形態から、原語から、機能からと多方面から一字に表現しようとした形跡が見て取れる。 筆者としては、最終的にどういう字が生き残っていくのかと同じくらい、見えないところでどんな悪戦苦闘をしてきたかというところも面白いと思っていて、引き続き「発掘」していきたいと思っている。 —- [参考文献] 笹原宏之 2007 『国字の位相と展開』 矢数道明 1960 「日本に於ける膵臓の認識経過について」日本医事新報1891号,p. 55-57•

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