ボブ ホーナー。 ボブ・ホーナー

【スギのみぞ知る】最強助っ人“ボブ・ホーナー”秘話…酒好きの赤鬼

ボブ ホーナー

凄かったですよ~、何と言っても本当の意味での現役バリバリのメジャーリーガーでしたから。 というのもそれまでの助っ人外人は「元・メジャーリーガー」と言っても何年かメジャーに居たってだけでほとんど3A以下の選手ばかりでしたから。 そこへ行くとホーナーはなんと大卒1年目から一度もマイナー落ちをしたことのない、正真正銘の現役メジャーリーガーだったのです。 日本デビューは開幕からちょっと経った5月のGWの阪神戦だったんですが、デビューして4試合で6ホームランですから。 自分も6月か7月ぐらいに球場で生ホーナーのプレイを目にしましたが、スイングと打球の速さは他の選手がプロに見えないほどズバ抜けていましたね。 誰だったかは忘れましたが相手チームの3塁手が試合後に「 守っていて あっ!って思った時には自分のスパイクの横にボールが来ていて一歩も動けなかった。 あんなゴロは見たことが無い。 」とコメントしていたほどです。 バックスクリーン脇にIN またそれまでの助っ人外人は凡打だと走りませんでしたが、ホーナーはたとえどんな凡打でも毎回必ず全力疾走していて、 その姿勢は外国人・日本人を問わず当時の他の選手たちにも影響を与えました。 …とまぁとても素晴らしい選手でしたが残念ながら日本の「野球」は好きになれなかったみたいで、1シーズン限りでアメリカに帰ってむこうで日本の野球のことを書いた暴露本まで出しています。

次の

記憶に残る輝き 2 〜日本を震撼させた選手たち ボブ・ホーナー、セシル・フィルダー〜

ボブ ホーナー

22日、テレビ朝日「中居正広のスポーツ!号外スクープ狙います!」では、「プロ野球最強助っ人外国人ランキング」を放送。 ファンや関係者によるアンケートに基づき、歴代助っ人外国人選手をランキングで紹介した。 その18位に登場したのは、1987年にヤクルトスワローズに加入したボブ・ホーナー氏だ。 それまでプレーをしていたアトランタ・ブレーブスで4番を打っていたことから、「メジャーの4番」が来日したと大きな話題になった。 日本球界でのプレーはわずか1年、シーズンが終わると逃げ帰るようにアメリカへと戻ったホーナー氏。 それでも93試合で31本のホームランを放つなど大きなインパクトを残し、今も中高年ファンの脳裏に焼きついている選手の一人だろう。 その後、メジャーリーグに復帰を果たすも1年で引退、現在は悠々自適な生活を送っているという。 だが、日本でのシーズンを規定打席に達しないまま終えているホーナー氏。 当時一緒にプレーをした野球解説者・広澤克実氏は、ホーナー氏について「なにしろ日本を舐めてた」と言い放つと、規定打席に達しなかった背景を「遠征の時には必ず『お腹が痛い』って休んでいたから」と苦笑い。 「それがなかったら三冠王獲ってた」とまで語る広澤氏は、「後楽園とか神宮の時だけやる。 で、気がついたらそれでも30本ぐらい打ってる」と呆れ顔で振り返った。

次の

記憶に残る輝き 2 〜日本を震撼させた選手たち ボブ・ホーナー、セシル・フィルダー〜

ボブ ホーナー

いよいよ今週末から、ゴールデンウイークが始まる。 ヤクルトOBの私にとって、この季節の思い出といえばプロ野球史上最強の助っ人、ボブ・ホーナーだ。 現役バリバリ29歳の強打者は、米大リーグ通算215本塁打の実績をひっさげ、1987年4月27日に来日。 5月5日のこどもの日にデビューしていきなり本塁打を放ち、翌6日も3本塁打の離れ業で「ホーナー旋風」を巻き起こした。 前年はブレーブスの看板打者として27本塁打。 その超大物が遠い日本までやってきたのは、年俸高騰を嫌った各球団のオーナーが共謀してフリーエージェント宣言した高給取りの選手を締め出したから。 浪人の危機となったホーナーにヤクルトが提示した年俸は、前年比3000万円アップの3億円。 当時の日本人の最高給は、中日・落合博満さんの1億3000万円だから、いかに破格だったかがわかる。 来日直前まで、私を含めヤクルトナインは「あんな大物が本当に来るのかな」と半信半疑。 夜の神宮球場で初めて打撃練習をしたときは、みんな居残ってその打球を見守り、度肝を抜かれた。 76スイング中23本がサク越え。 実に軽いスイングで、左翼スタンドにポンポンと放り込んだ。 本物の大リーガーを見ようと、神宮はデビュー戦から超満員。 1試合3本塁打を打った2戦目では、ヤクルト最後の攻撃となる8回2死で2番の角富士夫さん(現ヤクルト編成部)に打席が回ると、観客から「おまえは絶対(バットを)振るな! 四球でいいんだ!」などと珍しいヤジが飛んだ。 次打者のホーナーにプロ野球タイ記録の4本目がかかっていたからだ。 凡退した角さんは罵声の集中砲火を受け「やりにくくてしゃあないわ」と苦笑していた。 角さんは、ホーナーともう1人の助っ人野手のレオンと同じマンションに住んでいたため、球場の行き帰りは運転手代わりを務めていた。 ホーナーは帰宅前に必ず車を停め、ケンタッキーフライドチキンと缶ビールを買い込んだそうだ。 私も何度か一緒に飲みに行ったが、ビールの後は当時まだ珍しかったバーボンソーダを、ひたすら頼んでいた印象がある。 酒好きだが、性格は物静かで口数も少なめ。 練習はまるでしなかったが、オンとオフの切り替えはさすがで、試合になると赤鬼の形相で全力プレーした。 一塁を守るホーナーの金髪が神宮の夜風になびくのを見て、私は「大リーガーは格好いいな…」とあこがれのような思いを抱いた。 試合前はロッカーを背にして目を閉じ、瞑想(めいそう)しているのが常だった。 周囲は「すごいな。 これがメジャー流の精神統一か」と感心していたものだが…。 今思えば、ただ二日酔いで眠たかっただけかも。 単身赴任のホーナーは、来日10年目で日本通のレオンと連れだって、毎晩のように夜の街に繰り出していた。 それでもホーナーは打ちまくった。 地力に差があるレオンは、夜遊び疲れで成績を下げてしまったが…。 それでもホーナーは実働5カ月間の規定打席未満でセ・リーグ初の30本塁打越え(31本)を果たした。 その中身については次回にお話ししたい。 アリゾナ州立大時代の78年、原辰徳を擁する東海大との親善試合で来日し、全試合で本塁打。 同年の大リーグドラフトで全米1位指名を受け、ブレーブス入り。 いきなりメジャーデビューし、23本塁打で新人王。 1試合4本塁打を記録した86年オフにFA宣言。 交渉が不調に終わり、87年4月にヤクルトと契約。 93試合出場で31本塁打、打率・327、73打点を残した。 同オフにカージナルスと契約し米球界復帰。 4番を期待されたが、左肩故障で6月から戦列を離れ現役引退。 右投右打。 大リーグ通算1047安打、打率・277、218本塁打、685打点。 高知高時代は小柄なスラッガーとして「土佐の怪童」の異名を取り、高校3年時の1975年春の甲子園決勝では、原辰徳を擁する東海大相模高を自らの決勝打で破り優勝。 同年ドラフトでヤクルトに1位指名され入団。 87年限りで現役引退後は長く球団広報を務めた。 水島新司氏の野球漫画「ドカベン」に登場する微笑三太郎のモデル。 今年から本紙評論家を務める。

次の