山本 五 十 六 言葉。 展示品のご紹介

山本五十六

山本 五 十 六 言葉

山本五十六元帥の「述志」(昭和16年) 資料4 山本五十六元帥の「述志」(昭和 16 年) 述 志 此度は大詔を奉じて堂々の出陣なれば生死共に超然たることは難から ざるべし。 ただ此戰は未曾有の大戰にしていろいろ曲折もあるべく名を惜しみ己 を潔くせむの私心ありてはとても此大任は成し遂げ得まじとよくよく 覺悟せり。 されば 大君の御楯とただに思ふ身は 名をも命も惜まざらなむ 昭和十六年十二月八日 山本五十六 (注)1.本文は、山本義正著『山本五十六 その愛と死の記録 』 昭和 44 年 8 月 15 日 初版発行・ 昭和 44 年 9 月 20 日 20 版発行 光文社 によりました。 (ただし、漢字は旧漢字に改めました。 ) 2.「述志」の和歌について、阿川弘之氏は、その著『山本五十六』 (下)の中で、次のように言っておられます。 「惜しまさらなむ」の「なむ」は、この場合、未然形につづい ていて、これを文法通り解釈すれば、「みんな、名も命も惜し まないでもらいたい」という意味になる。 前段の文意から推せ ば、山本は自身の覚悟を歌いたかったので、「惜しまずありな む」のつもりだったのであろう。 (上記の阿川弘之氏の文中に、「惜しまさらなむ」と清音に なっているのは、氏の引用では元帥の歌は、「 大君の御楯と たたに思ふ身は名をも命も惜まさらなむ 」と、濁音なしで表 記されていることによるものです。 未然形につく「なむ」は、他に誂え望む意を表す終助詞な ので、文法通り解釈すれば、相手に「〜してもらいたい」と 望む意味になるが、ここは山本自身の覚悟を歌いたかったの だから、「惜しまずありなむ」のつもりだったのだろう、と 阿川氏は言っておられるわけです。 ) なお、阿川弘之氏の『山本五十六』(下)は、新潮文庫 (昭和48年 2月27日発行、昭和58年11月15日19刷) によりました。 新潮文庫の『山本五十六』は、昭和44年に刊行された、新版『山 本五十六』によったものの由です。 3.上記の阿川弘之氏の『山本五十六』(下)によれば、戦艦「武蔵」 の、山本五十六長官の私室の抽斗 (ひきだし) から、一通の、遺書と見 られるものが出て来たそうです。 (死の7か月前に書かれたものです。 ) 征戰以來幾萬の忠勇無双の將兵は命をまとに奮戰し護國の神と なりましぬ ああ我何の面目ありて見えむ大君に將又逝きし戰友の父兄に告 げむ言葉なし 身は鐵石に非らずとも堅き心の一徹に敵陣深く切り込みて日本 男子の血を見せむ いざまてしばし若人ら死出の名残の一戰を華々しくも戰ひてや がてあと追ふわれなるぞ 昭和十七年九月末述懷 山本五十六誌 (読みの注)見えむ……まみえむ 將又………はたまた なお、 の中の『その時 歴史が動いた 』の 第239回・ 「シリーズ真珠湾への道〜山本五十六運命の作戦決行〜」 (平成17年12月7日放送)でも、この文章(一部省略)が紹介さ れました。 (2012年6月18日) 4.平成20年12月2日付けの読売新聞が、山本五十六元帥の遺書と もいうべき昭和14年と昭和16年の2通の直筆の「述志」が発見さ れたことを掲載したと、読売新聞のサイトが伝えています。 「山本五十六直筆「述志」発見、50年以上も不明」 このことについて 『YOMUIRI ONLINE』に、「山本五十六の述志、大分 の先哲史料館で展示始まる」という記事(2008年12月7日読売新聞)が出 ていましたが、これは平成20年(2008)5月に、山本五十六の親友で大分 県杵築市出身の元海軍中将・堀悌吉の孫宅(東京)で見つかった「述志」 ほかの資料を展示したことについて報じたものでした。 しかし、『YOMUIRI ONLINE』のこの記事は、現在は見られないようです。 次に、読売新聞掲載の「述志」の写真によって、改行等を原本 通りに改めた文を示しておきます。 (変体仮名や平仮名の「く」 を縦にのばした形の繰り返し符号は、普通の仮名に直しました。 ) 述 志 昭和十六年十二月八日 此度は大詔を奉して堂々の出陣 なれは生死共に超然たること は難からさるへし たゝ此戰は未曾有の大戰にして いろいろ曲折もあるへく名を 惜み己を潔くせむの私心ありては とても此大任は成し遂け得ま しとよくよく覺悟せり されは 大君の御楯とたゝに 思ふ身は 名をも命をも惜ま さらなむ 昭和十六年十二月八日 山 本 五 十 六 (花押) (2008年12月4日付記) 5.が、資料3にあります。 6 . 山本五十六元帥が戦死を遂げられたとき、元帥の死を悼む歌がい くつか作られました。 その一つに、朝日新聞社撰定の『ますらをの 道』(山本元帥の遺詠3首に曲をつけたもの)があります。 (山中 恒著『ボクラ少国民と戦争応援歌』音楽之友社、昭和60年8月30日第1刷発 行、昭和60年10月20日第2刷発行によりました。 ) 朝日新聞社撰定『ますらをの道』 山本元帥遺詠三首 信時 潔 作曲 益良雄(ますらを)のゆくとふ道をゆききはめ わが若人(わかうど)らつひにかへらず 今宵もやてる月影をしるべにて 仇うち居らむ空の男の子は 大君の御楯(みたて)とただにおもふ身は 名をもいのちも惜(を)しまざらなむ 7 . 前掲の山中恒著 『ボクラ少国民と戦争応援歌』によって 、 山本五 十六元帥を悼む歌の題名(作詞・作曲者名)を次にあげておきます。 『ますらをの道』山本元帥遺詠、信時潔曲 『山本元帥の歌』百田宗治詞・片山頴太郎曲 『噫 山本五十六元帥』勝承夫詞・佐々木俊一曲 『靈(みたま)かけりけむ』(山本元帥を悼みて) 佐藤春夫詞・清水脩曲 『山本元帥』大木惇夫詞・海軍軍楽隊曲 なお、同書には歌詞が載せてあり、『ますらをの道』『山本元帥 の歌』『噫 山本五十六元帥』については巻末に譜面も掲載されて います。 ) 8. 長岡市のホームページの中に、 「 」 の紹介と、 「 」の ページ(肖像写真あり)があります。 (写真をクリックすると拡大写真になります。 ) 10. というサイトの「会ってみたいな、この人に」 (銅像との出会い)の中に、があって、参考 になります。 山本五十六元帥の言葉としては、「やってみせ言って聞かせてさせてみてほ めてやらねば人は動かじ」が有名ですが、この言葉について、 に というページがあり、 その中に次のような記述がありましたので、引用させていただきました。 お断り: このページには現在繋がらないようです。 (2017. 11.03) なせば成る なさねば成らぬ 何事も 成らぬは人の なさぬなりけり は鷹山の作といわれ、米沢市の上杉神社には歌碑もある。 この有名な歌が鷹 山の作であるか否かはともかくとして、鷹山はこの歌を座右の銘として「藩政改 革」を断行した。 この他に、鷹山の作としては してみせて 言って聞かせて させてみる が伝わっている。 これは後年、 やってみせ 言って聞かせて させてみて ほめてやらねば 人は動かじ という山本五十六の言葉として人口に膾炙することとなったが、鷹山の「人間の 心」に対する深い洞察が窺われる言葉である。 念のため付記しておきます。 (文・保高芳昭記者) ここには、稲川明雄著『山本五十六のことば』(新潟日報事業社)からの引用 として、 やって見せ 説いて聞かせて やらせてみ 讃めてやらねば 人は動かぬ という形で紹介されています。 解説の記事の一部を、少し引用させていただきます。 「この言葉を、山本自ら書き残したものは見つかっていない。 故郷・新潟県長岡市にあ る曹洞宗堅正寺 (けんしょうじ) の住職が、友人だった山本の信条として講話集の中で紹介 した。 /「褒める」でも、「誉 (ほ) める」でもない。 「讃める」と書く。 /「馬鹿な奴を おだてると云うことではなく、共に喜ぶことなのであります」。 住職は講話でそう解説して いる。 /「率先垂範」を旨とする海軍では同様の訓戒が、さまざまな言い回しで受け継 がれていたようだ。 」 (2017年7月16日) 13. というサイトに、 というページがあります。 14. 半藤一利著『山本五十六』(平凡社、2007年11月23日初版第1刷発行)が出ま した。 同書「まえがき」によれば、「本書は、昭和61年(1986)に恒文社から刊行し た『山本五十六の無念』を支柱として、それに比較的最新の作を集めて新編集した もの」だそうです。 15. というサイトに、 というページがあり、昭和14年5月31日付けの「述志」の写真の他、参考になる記 事が掲載されています。

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山本五十六元帥の「述志」(昭和16年)

山本 五 十 六 言葉

渡部悌治なる方は、戦前から日本支配を目論むユダヤ勢力に気付き、半ば命を掛けて日本での彼らの活動を監視してきた数少ない真の愛国者です。 これについては、ベラスコ自身も情報を得ていたとのことで、詳しくは、著書の後段に書かれていますので、是非ご一読を。 以下、「伝説の秘密諜報員 べラスコ」(高橋五郎著)を基に転載紹介します。 愛国陣営の神道家渡部悌治は外国勢力(ベラスコたちのユダヤ金融と宗教勢力=世界寡頭権力)を監視した。 では外国勢力は昭和天皇時代のどんな日本人らと連携したのか。 日本人の誰が世界勢力の意図に呼応して日本の進路を誤らせたのか。 私は渡部と新宿花園神社内の一室でお会いしたことがあった。 凛とした人物だった。 同書『ユダヤは日本に何をしたのか』のなかでベラスコの呟きを逆証明する情報を渡部はいくつも明かしてくれている。 その体験談情報をさらに紹介させて戴こう。 山本は軍事研究とキリスト宗教に強かったが、国際ギャング(寡頭権力者勢力)の背後に隠れたキリスト教会のさらに背後に忍んでいたイエズス会の存在、つまり世界宗教組織に対する認識は欠落していたようだ。 その山本がアメリカ海軍の圧倒的勝利説に関与した疑いが渡部らの純正愛国陣営を密かに揺るがしたことがあった。 その時期は山本五十六が日本連合艦隊司令長官として開戦を睨んでいたころだった。 勝利説の根拠は山本が日本海軍のトップの座にある間に戦えばアメリカ海軍は勝利または五分五分でも有利に決着はつくというアメリカ発の情報にあった。 その節が純正愛国陣営に衝撃を与えたのは、その情報源が山本の留学したハーバード大学関係者からの情報だとされたことに加えて、実は 山本の正体は世界秘密結社メンバーだとする疑念が陣営関係者の間で囁かれていたことにもあった。 そこへこの説がハーバード大学ルートからの情報として伝わってきたことからアメリカ海軍勝利説の信憑性はいやがうえにも高まった。 いや、この説はもっともらしいアメリカ側のトリック情報だからその説に挑発されてはならぬ。 日本の純正愛国陣営はそう結論づけた。 渡部は世間が知らない山本について自著で次のように書いている。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 山本五十六が米内光政や高橋三吉らと、日・独・伊三国の軍事同盟反対の密議を凝らしていた場所は、東京・麻布の狸穴にあった。 この妾宅に情報を掴みに出入した人物がいた。 憲兵隊の須藤清輝君である。 須藤君はこの娘芸妓を高く評価していた。 山本が戦死した報を得て、須藤君が文書の遺稿でもと狸穴を訪ねたときには既にこの女性が一切を処理し終えた後であり、失望して帰庁する途次〔渡部の自宅に〕立ち寄ってくれた記憶は消えない。 十八歳なのにしっかりした女だとつくづく述懐するのであった。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 以下は渡部悌治ら「純正愛国陣営」が見た戦争直前の日本だ。 陣営の敵を世界ユダヤ勢力と呼んでいるが、それは本書でいう世界寡頭権力者勢力のことで同じ勢力のことだ。 日本と支那を何とか戦わせるのがユダヤ勢力の狙いだとする渡部らの陣営の指摘はこうなる。 日支を争わせるものだと指摘した渡部ら陣営の根拠は、こうなる。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 西紀1918(大正7)年9月17日、モスクワにおいて イルミナティ(ユダヤとボリシェビーキとの合同)会議が開かれた。 そして「イルミナティの壮厳な会議において、15名の会員、国民ソヴィエトの五委員会、全連盟共産党中央委員会の秘書役1名が署名して交付するもの」という 「日支闘争計画案」を含む文書が交付された。 文書には「1918年8月中旬、イルミナティ大会は、ユダヤ世界最高会議より発せられた教書を受領した。 この教書は今後におけるヨーロッパ及びアジアの同時闘争の決定計画を指示するものである。 」と冒頭に注意書きしてあったという。 この案の日支関係について要約すると、 「直ちに日本と支那との内部破壊を図るとともに、支那に半日運動を起こさせ、それを日支の武力闘争にまで発展させ、それに対してソ連と特にアメリカとを干渉させる戦争にまで発展させ日本を倒し、それとともにヨーロッパに社会革命を起こさせる第二次世界大戦を計画する。 」というものであった。 元警視総監、故赤池濃氏によれば、この計画の項目のひとつに、「われらはロシアをコミンテルンの城砦とし、恐るべき社会的破壊の災害を惹起せしめるのであるが、それは最高度の社会主義的原理に導くためである。 」という項があったという。 最高度の社会主義的原理というのは、暴力革命を意味したのであり、その原理の実現のため ユダヤは、ソ連を世界最強の武装国とする必要を感じ、ここにあらゆる援助を行って、数次にわたる五ヵ年計画を実施させ、膨大な軍備を備えさせ、ついに第二次世界大戦への道に踏み出させたのである。 このいわゆる 「日支闘争計画案」なるものは、その後永く日本の親英米・親ソ容共派の行動を内面から指導し続けた原理であった。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ さて、ここからが面白くなる。 渡部らの純正愛国者陣営は監視結果として、 先の日支闘争計画案の原理を実行する日本の機関が太平洋問題調査会(前述のIPR)だと名指しした。 いや、この会に出入してきた著名人らの名誉(不名誉!?)のためにいえば、著名人自身がこの会の本当の目的が何なのかについてまるでトンチンカンのままだったのだ。 1926年(大正15年)から常設されている 太平洋問題調査会の事務所とその家賃は誰が払っていたのか。 この会の開設資金、基本経費は最終的にはロックフェラー一族すなわちユダヤ世界寡頭権力者勢力の負担だったのだ。 新渡戸稲造、松岡洋右、鶴見裕輔、西園寺公望、牧野伸顕、原田熊雄、会の幹事長を務めたキリスト教会の斉藤惣一や新聞記者の尾崎秀実、そして外国人は、ソ連のスパイのオーエン・ラティモア、ヒヒャルト・ゾルゲなどのほか、京都で行われた会議(1929年)にはアーノルド・トインビーやジョン・ロックフェラー三世らも出席した。 日本人の著名人らはこの日比谷・内幸町に置かれた敵のアジトを国際平和のための高度な情報交換の場と錯覚して、実はこの会のメンバーらの手で日本の開戦と敗戦とが企まれて処理された事実も知らずに、戦後の現在になってもまだ誰一人知らずにいる。 太平洋問題調査会が、日本ではどう説明されている課、その能天気な実態を別項で紹介した。 作家、野口雄一郎のレポートに登場する前田多門が出入した太平洋問題調査会という短いくだりから類推されたい。 大新聞社もNHKもこの太平洋問題調査会(IPR)に出入した人物たちがあたかも世界へと飛び出す期待される日本人の晴れがましい桧舞台だったかのように信じてその誤った近現代史を恥知らずにも、今だ国民に知らして平然としている。

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山本五十六から学ぶ人材育成論とは|最も戦争に反対した男|ferret

山本 五 十 六 言葉

苦しいこともあるだろう。 言いたいこともあるだろう。 不満なこともあるだろう。 腹の立つこともあるだろう。 泣きたいこともあるだろう。 これらをじっとこらえてゆくのが、 男の修行である。 やってみせ、言って聞かせて、 させてみせ、 ほめてやらねば、人は動かじ。 話し合い、耳を傾け、承認し、 任せてやらねば、人は育たず。 やっている、姿を感謝で見守って、 信頼せねば、人は実らず。 人は神ではない。 誤りをするというところに、 人間味がある。 男は天下を動かし、 女はその男を動かす。 内乱では国は滅びない。 戦争では国が滅びる。 実年者は、今どきの若い者 などということを絶対に言うな。 なぜなら、われわれ実年者が若かった時に 同じことを言われたはずだ。 今どきの若者は全くしょうがない、 年長者に対して礼儀を知らぬ、 道で会っても挨拶もしない、 いったい日本はどうなるのだ、 などと言われたものだ。 その若者が、こうして年を取ったまでだ。 だから、実年者は 若者が何をしたか、などと言うな。 何ができるか、 とその可能性を発見してやってくれ。 そのため、他の名言サイト様とは表現が異なる場合がありますのでご了承ください。

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