アステカ の 祭壇 と は。 「アステカの祭壇」の写真を見てしまいました。

アステカ文化(アステカぶんか)とは

アステカ の 祭壇 と は

16世紀初めのスペイン人のメキシコ侵入直前に、メキシコ中央高原を中心に栄えた先住民の文化。 南アメリカのインカとともに、アメリカ大陸の先スペイン期文化のなかでもっとも高度の発達を遂げていた。 アステカ文化の担い手であるアステカAztec(別名メシカMexica)人は、もともとメキシコ北西部に住んでいた狩猟民であり、ウト・アステカ語族に属するナワトル語を話していたが、アストランとよばれる伝説的な土地から出て各地を放浪したすえ、13世紀初めに、トルテカ、亜トルテカ系の強力な部族が割拠するメキシコ盆地に入り、初めアスカポツァルコのテパネカ人の傭兵 ようへい となった。 1345年(あるいは1369~1370年の間)彼らはテスココ湖上の小島にテノチティトランとよばれる町を建設し、1358年にはアステカ人の一派が、その北方にトラテロルコを建設した。 アステカ人はこの2拠点を中心にしだいに勢力を伸ばし、1473年、アシャヤカトルという名の王のとき、両者を併合して発展の基礎を定めた。 そして、テスココ、トラコパンの二大都市国家と三者同盟を結んで、メキシコ中央高原の各地を征服し、富を三分していたが、1500年までに両者を圧倒して、1502年に即位したモクテスマ2世の治世に最盛期に達した。 しかし1519年に侵入してきたコルテスの率いるスペイン軍のためモクテスマが捕らわれ、その後を継いだ最後の王クワウテモクのとき、首都を制圧されて、1522年にアステカ国家は滅亡した。 [増田義郎] アステカの社会アステカ社会は、もともとカルプーリという、血縁に基づいた共同体組織を基礎とし、軍事指導者や首長を共同体員が選出する、軍事民主制の特徴を備えていたが、第4代のイツコアトル王の時代(1427ないし1428年から1440年まで)にテパネカ人を制圧したころから、貴族、軍事階層の発言力が強まり、トラトカンという最高会議を構成する4人の大貴族がトラトアニ(王)を選ぶようになった。 さらに第8代のアシャヤカトルのころから、トラトアニの勢力がしだいに強まって、モクテスマ2世のころまでには、専制王の相貌 そうぼう を備えるに至った。 そして終末期のアステカ社会は、カルプーリによる共同体的土地保有の特徴を残しながらも、征服地を隷属農民や奴隷に耕作させる貴族の大土地所有が発達しつつあり、階層分化が進行していた。 また、テノチティトラン、トラテロルコなどの大都市においては、住民の職業に従って居住区域の行政組織が発達し、自治的な警察、司法組織も成立していた。 ポチュテカとよばれた商人集団は特定の地域に住んで多くの特権をもち、しばしば貴族を圧倒するような富を蓄えながら、メキシコ、中央アメリカ各地にわたって、広範な通商網を広げていた。 テノチティトランにおいては貴族、平民のための教育機関も発達していた。 [増田義郎] アステカ国家古くは、モルガン(モーガン)、エンゲルスらによって、アステカ社会は「未開中層」の発展段階に属し、国家形成以前の部族連合体であると唱えられたが、15世紀末以後のアステカ社会は、急速に国家形成への道を歩んでいたと考えてよい。 トラトアニへの政治権力の集中、大土地を所有する貴族階層の成立などと相まって、国家的な行政機構と徴税組織が整備されつつあった。 アステカ人が、テスココ、トラコパンとともにメキシコ中央高原の政治支配を確立した15世紀後半に、この地帯は、テノチティトランなどからの行政官、裁判官の派遣によって直接支配を受けるようになっており、15世紀末テノチティトランの覇権が確立されてからは、アステカのトラトアニが、従属都市の首長の継承についても、最終的な決定権をもつようになった。 徴税吏が派遣されて、定期的に貢納が行われ、また住民が、テノチティトランおよびその周辺の大土木工事や建設のために徴発されることも珍しくなかった。 要するに、中央高原の大部分においては、アステカの領土国家的編成がほぼ完成していたと考えてよい。 しかし、中央高原以遠の各地におけるアステカの政治支配は、主として徴税吏の派遣による、食料、衣料、人身御供 ひとみごくう のための人間などの徴発に限られており、各地の先住民の伝統的な政治、社会組織にはなんら基本的な変更が加えられず、従来の首長の統治が認められ、テノチティトランからの行政官の派遣による直接支配はなかった。 また、ペルーのインカ国家の場合のように、征服者の言語、宗教、慣習の強制による文化的同化政策はとられなかった。 したがって、アステカの政体は、中央高原における国家的支配を中核としていたが、同時にメキシコの中央部、南東部への間接統治による支配が行われる、という二重構造をもっていた。 ただし、国家機関や領土観念が、中央高原からさらにその周辺の地域に拡大されつつあった過程にスペイン人の侵入があってそれが阻まれたのであり、もしこの中断がなければ、アステカ国家は、インカ国家のように広域にまたがる「帝国」にまで発展したことであろう。 [増田義郎] アステカの宗教・世界観アステカ人の宗教は、先住のトルテカ人の神学の影響を強く受け、世界を水平に広がる四つの部分に区分すると同時に、それぞれ9層よりなる天界と冥界 めいかい がある、と考えていた。 そして天界は、地を取り巻く水とともに一種の筒形の天井を形成し、そこには梁 はり によって互いに隔離された軌道が層をつくっていて、地上から数えて最初の五つの層には、月、星辰 せいしん 、太陽、宵 よい の明星、彗星 すいせい が属し、その上に神々の住む層があって、最上位には、創造神オメテオトルの住むオメヨカンがある、と信じられていた。 オメテオトルは、両性を備えた二元神であり、最高の神であるが、いわゆる「閑職神」の性格を備えていて、天地創造は自分の手で行わず、赤いテスカトリポカ、黒いテスカトリポカ、青いテスカトリポカおよびケツァルコアトルの4人の子に、人間と世界にあるいっさいのものを生ませたことになっていた。 この四つの神々は、大地、空気、火、水の4要素に対応する力をもち、それぞれが太陽となって、宇宙の四つの区域から行動をおこし、世界に変動と葛藤 かっとう と進化をもたらしながら、誕生と死滅のサイクルを繰り返して、歴史上の各時代をつくる、と考えられた。 そして、アステカ以前の過去において、各時代の太陽は、それぞれ、洪水、火、風、ジャガーによって滅ぼされ、アステカ人は第五の太陽の時代に生きているが、これもやがて地震によって滅ぼされる、という一種の終末観が信じられていた。 世界の滅亡がおこる時期は、アステカ人の用いていた、260日を1年とする短暦と、365日を1年とする長暦のサイクルが重なる52年目に一致する、と考えられていたので、この周期は注意深く暦のうえに記録されていた。 そして、太陽が力衰えて死滅し、世界が滅びるのを食い止めるために、アステカ人は大規模な人身御供の儀式を組織し、戦争で捕らえた敵兵や、支配下の各地から差し出させた男女を、首都の中央部に建設した大ピラミッドの頂上の神殿の前でいけにえに捧 ささ げ、黒曜石のナイフで彼らの胸を切り開いて、人間の血と心臓によって太陽に活力を与えようとした。 テノチティトランの壮大な神殿群やそこで行われる年中行事は、すべてこの世界観を中心としてつくりあげられたものであり、アステカ国家の膨大な軍事組織や行政機構は、すべて彼らの宗教的観念の実践のために機能していた、といっても過言ではない。 [増田義郎] 建築と工芸アステカの首都テノチティトランは、人口15万ないし20万の大都市であったが、16世紀初め、スペイン人の手で徹底的に破壊されたため、そのほとんどの建造物は消滅している。 ほぼ完全な形で残っているアステカ期の神殿は、テナユカ、サンタ・セシリア、カリシュトラワカなど、テノチティトランの周縁部の小規模なものだけである。 往時のテノチティトランの神殿複合に属していた石彫の断片が残っていて、なかでも、メキシコ国立人類学博物館所蔵の太陽の石、聖なる戦いの神殿模型、シウコアトル(火の神)像、コアトリクエ女神像、ショチピリ神像などは、アステカ彫刻の技術の高さをうかがわせる。 破壊された神殿の基底部は、メキシコ市のトラテロルコ地区、および1978年以後月神コヨルシャウキ像の発見を機縁に発掘されているメキシコ市憲法広場付近の地区などにおいてみることができる。 工芸品のなかで、土器はアステカ様式の平皿、壺 つぼ などのほか、支配階層の人々のためにつくられた、チョルーラおよびミシュテカ・プエブラの彩色容器が美しい。 同じくミシュテカ・プエブラの工人がつくった金製品の多くは、スペイン人の略奪にあって失われてしまった。 羽毛細工もアステカ工人の得意とするところであり、代表的な作品としては、「モクテスマの王冠」(ウィーン民族学博物館蔵)がある。 木製品では、水平型のテポナストリ、垂直型のウェウェトルなど、彫刻の施された太鼓が有名であり、石彫では、上記のもののほか、ママワル(平民)や神々の像が写実的な表現力を示している。 彼らの歴史や宗教観念などについては、折り畳み式の絵文書に記され、図書館に保存されたが、スペイン人の破壊により、大半は失われている。 ただし、スペイン植民地時代に、アステカ工人の手で制作された絵文書は、キリスト教の影響を示しながらも、先住民文化について多くの手掛りを与えてくれる。 さらにスペイン人によって滅ぼされるまで,メキシコ中央高原に栄えていたもまたトウモロコシ耕作を基礎とする農業によって支えられていた帝国である。 乾燥した中央高原を舞台とするアステカ帝国では,階段耕作や灌漑技術の発達によってトウモロコシの大規模な集約農耕が可能になったのである。 出典| 株式会社平凡社 世界大百科事典 第2版について.

次の

【怪奇夜話】アステカの祭壇 / 恐怖・ホラーブログ

アステカ の 祭壇 と は

アステカの祭壇とは、上での一つである。 概要 撮られた場所も年代ものに写り込むい。 いずれも何かの台やのような形をしているが、これらはすべてテカ文明の祭具が映り込んだものと言われている。 13世紀から15世紀まで栄えたテカ文明。 ここでは的に人身御供が行われ、生け贄をげなければが消滅する、と信じられていた。 その事の際には、生け贄を殺すために縛った台、生き血を入れるためのが使われていた。 その台やが、として現代にった。 それがこの「アステカの祭壇」なのである。 この「アステカの祭壇」のをリーバボーなどのの特集で放送したところ、に多数の霊者から「何というものを放送するんだ」と苦情が入り、での特集が減った原因であるとも言われる。 聞は一見にしかず、「だけじゃ分かんねーよ」という人は下記を見てみることをオススメする。 しかし「見ると呪われる、なことが起こる」とも言われているので 閲覧する際は でお願いします。 (切れ) が、どうやらこういうことらしい。 以下より まず「」で考えてみましょう。 テカ文明には信仰があり、それに活を与える生贄として人身供犠が行われていたのはです。 しかし、生贄にされるのは大変名誉なことで、その対は捕虜やの中から、でルックスのいいが選ばれ、祭事までは非常に丁重に扱われたということです。 の々からすれば残酷な行為ですが、彼らにとってそれは重要なだったのです。 また、テカは中南で栄えた文明です。 それがなぜ、彼らとは縁ももない、遠く離れたでに写るんでしょうか?第一、テカで行われていたのはにを与える祭事であったのに、なんで裏返って呪いになるんでしょうか? さて実際の「アステカの祭壇」のですが…これは現でも何でもありません。 単なる撮時のがで出ただけです。 祭壇に見えるは、内のを押さえつける部品の形です。 つまり、その部品の部分だけちゃんと感してないからああ見える。 部品の形はどの機種でも似ているので、時や場所が別々でも同じようなが撮れてしまうのは当たり前。 の周りがっぽくなるのは、やのは波長が長く、そのような不全な状態のにも入り込みやすいからなんです。 本来そんなはしないものなのですが、やってしまったという点では時のとも言えますね。 それとリーバボーに苦情が来たというのは本当らしいのですが、霊者ではなく、に携わるの人々が「あんなキ放送するな」と言って来た、といった所が相のようです。 実際、などないが世間の流になってからは、ピッタリとこの手のは出て来なくなりました。 時代のなんですね。 ついでにアステカの祭壇の人為的な写し方も書いておきます。 ボディーは、はめ込み式になっているので、だけ本体に隙間を開ける。 要はこの行為によって、上の最後の撮済みのにを方向から感させる事ができる(チカラ技での多重露)。 ボディーをきちんと元に戻してから(が入りそうな場合はテープで止める)、巻き上げを「巻き上げ点」からさらに理やり回し、負荷がなくなるまで回しきる。 これで外に出ていた(最後の)が、全に本体に入る。 今度は全に本体のはめ込みを解除し、本体を外に取り出す。 を屋に持ち込み、・トを依頼する。 この時大事なのは『必ず全部のをトして下さい。 っやが入っているもかまわないからトして下さい。 』と念を押しておく事。 屋によってはに撮とわかるはトしない場合があるため。 ちなみに者が時代に実際に試したところ、アステカの祭壇は撮出来ました。 関連商品 関連項目• 反義者の代表例であるポパーによると、にへの信仰が存在しているとしても、にとって信仰は不要である。 は、自らに対する反可性を認めている。 つまりは「相対的言明」であり、自らが的を受けて、反され得ることを認めている。 一方で、は試されることを。

次の

アステカの祭壇の真相!心霊写真は嘘で撮り方もあった?【検索してはいけない】

アステカ の 祭壇 と は

名称 [ ] 「アステカ」という名称は19世紀はじめの(ドイツの博物学者兼探検家である)が名付けた造語で、自称ではない。 民族の伝説上の故地であるに由来する名称だが、の人々はアストランを去った後に新しい民族としてのアイデンティティを得たのであって、故地によって名前をつけるのは適切ではないという批判がある。 それ以外にも、言語・地理・政治・民族・土器の種類などのどれを基準としてアステカと言っているのかわからない、範囲としてもメシカのみを指す場合もあれば、のすべての人を指す場合もあれば、話者すべてを指す場合もあれば、アステカ三国同盟を指す場合もあれば、との住民を除くメソアメリカすべての人々を指す場合もある、という問題がある。 とはいえ、アステカという言葉は長く使われているために、にわかに変えられないが、より明確にするためには以下のような語を用いることができる。 地理的名称としては中央メキシコ、またはその中のなど• 民族名としては、またはその一部であるメシカ(ただし「ナワ」は研究者による呼称であり自称ではない)• 言語名としてはの、またはその一部である 歴史 [ ] アステカ神話を題材とした アステカはメキシコ盆地の最大勢力であるの国家にしてその庇護を受けていたが、はアスカポツァルコ王国の許可を得て()に即位し、世襲の王族となった。 当時のアスカポツァルコ王は一代の英主であり、彼の時代にアスカポツァルコはメキシコ盆地のかなりの部分を制圧する。 アステカはアスカポツァルコの属国として兵員を提供する義務があったが、やがてアスカポツァルコの許可のもと、アステカは独自に出兵を行うようになり、テスココ湖の南部にあるいくつかの集落を領土にくわえた。 こうして、アカマピチトリはアスカポツァルコの属国として領土を拡張することで国力を増加させた。 にアカマピチトリが死去すると、その子であるが長老による評議会によって王に選出された。 ウィツィリウィトルも父同様アスカポツァルコに従い、その過程で領土を拡大した。 このころ、アスカポツァルコ最大のライバルはテスココ湖東岸の人の都市となっていた。 テスココ王のイシュトリルショチトル・オメトチトリはの王を称し、アスカポツァルコと対決する姿勢を取った。 イシュトリルショチトルの妻はアステカの有力者であるの娘であり、この姻戚関係を利用してテスココはアステカに共闘を呼び掛けたが、にアステカの第三代国王に就任したチマルポポカは、アスカポツァルコとの同盟を堅持してテスココと敵対する方針を取った。 、アスカポツァルコとテスココはついに開戦し、アスカポツァルコが勝利。 は殺害され、息子のネサワルコヨトルは逃亡してテスココはアスカポツァルコの支配下に入った。 この戦いでアステカは大きな役割を果たし、アスカポツァルコの最有力の同盟都市のひとつとなった。 覇権 [ ] にテソソモクが死亡すると、アスカポツァルコ王にはテソソモクの息子であるが即位したが、権力闘争が激化し、その過程でチマルポポカも暗殺された。 かわってに王位についたはアスカポツァルコへの敵対を強め、一触即発の雰囲気となった。 この時テスココの旧主であるが同盟案を携えてテノチティトランを訪れ、アステカに援助を要請した。 この案は受け入れられ、まずアステカ軍はテスココへ侵攻してネサワルコヨトルを支配者とし 、その後両都市と、さらに湖の西岸にあるテパネカ人の都市の三都市が同盟を結んでアスカポツァルコへ侵攻し、に滅亡させた。 こうしてアステカはテスココと共闘してアスカポツァルコを倒し、湖の西岸にあるを加えて ()を結成した。 これがいわゆる「アステカ帝国」である。 こののちアステカの勢力がほかの二都市を圧して伸びていくものの、国制上はアステカは最後までアステカ(テノチティトラン)・テスココ・トラコパンの三都市同盟だった。 アスカポツァルコ崩壊後、三都市はその領土を分割し、テスココは湖の東部を、トラコパンはアスカポツァルコを含む湖の西部を、そしてテノチティトランは湖の北部と南部の支配権を得た。 この勢力図はその後も継承され、各都市はそれぞれその方向に勢力を拡大していった。 アスカポツァルコを滅ぼし覇権を握ると、イツコアトルは勢力拡大に乗り出した。 まず最初に手を付けたのが、ネサワルコヨトルへの軍事援助とテスココ湖南部への出兵である。 テスココを奪回したばかりのネサワルコヨトルはいまだ安定した勢力基盤を築き上げておらず、このためイツコアトルはネサワルコヨトルへの援軍としてテスココ湖東部のアコルワ人地域への出兵を行い、この地域をテスココの勢力範囲として確定させた。 アコルワ人地域の制圧をもって、にネサワルコヨトルはテスココ王に正式に即位した。 一方テノチティトラン独自の動きとしては、テスココ湖南部の地域へ出兵し、この地域を完全にアステカの支配下においた。 この地域は畑の広がる非常に肥沃なであり、ここを制圧したことでアステカの食糧事情は大幅に改善され、また同盟の他二都市に対する優位を保つ力の源泉ともなった。 この地域を制圧するとすぐにイツコアトルはテノチティトランとテスココ湖南部のイツタパラパンとを結ぶ土手道を築き、これによってテノチティトランから帝国南部への交通が大幅に改善されたほか、淡水のテスココ湖南部と塩水のテスココ湖北部の水が交わるのを防ぎ、南部の農業生産に改善をもたらした。 にはさらにメキシコ盆地の南にあるクアナウワク(現在の)地方に同盟三都市で共同出兵して占領し、これがアステカの領土拡大の端緒となった。 アステカ王イツコアトル・テスココ王ネサワルコヨトル・トラコパン王トトキルワストリの三者同盟は強固なものであり、特にテスココ王のネサワルコヨトルは法治システムや征服した領内の旧支配者を復位させて間接統治するシステムの整備、さらにはテスココ湖内の堤防建設などによってアステカの基礎を固めるのに大きな役割を果たした。 、イツコアトルの後を継いでがする。 モクテスマ1世はまず南に隣接する地域(現在のモレロス州やゲレーロ州北部)などの支配を固めるとともに、ネサワルコヨトルの支援を得てテスココ湖を南北に分断する堤を築いた。 この堤によってテスココ湖の水位調節がうまくいくようになったほか、テスココ湖中部のテノチティトラン周辺の湖水の塩分濃度を下げ、農業用水の確保も可能になった。 統治が固まると、モクテスマ1世は遠征を頻繁に行い、メキシコ湾岸の熱帯地方を占領・従属させて勢力を拡げた()。 また、南東の人地方にも侵攻し、商業都市コイシュトラワカをはじめとするいくつかの地域を支配下におさめた。 征服した土地に対して貢ぎ物を要求したが統治はせず、自治を許していた。 被征服地は度々反乱を起こしたが、武力で鎮圧された。 にモクテスマ1世が死去したころには、現在のの大半にあたる太平洋岸地区や、の南部、の一部までがアステカ領となっていた。 1469年、モクテスマ1世の死去に伴いが即位した。 彼もまた周辺地域に盛んに出兵し、征服を行った。 にはテスココ国王であり、長年アステカ三国同盟の重鎮であったネサワルコヨトルが死去した。 には、アステカ内の2大都市であり、徐々に対立を深めていたテノチティトランとトラテロルコの間で内戦がおこった。 この内戦は短期間で終わり、テノチティトランの優位が確立された。 国内の再統一を済ませると、アシャヤカトルは西へと侵攻し、からにかけての戦いでを征服し、西に隣接する大国へと侵攻したものの、大敗を喫した。 1479年には、を奉納している。 1481年にアシャヤカトルが死去するとその弟であるが即位したものの、彼は軍事的には無能であり、1486年に暗殺された。 にティソクの弟であるがすると、再び軍事的拡張が再開した。 彼の代にアステカ帝国の領土は沿岸の熱帯地方まで到達した。 アステカの支配地域は太平洋岸に沿って西に細く伸びるようになったが、これは西の大国タラスコ王国への侵攻拠点とする目的も持っていた。 治世の末期には南東方向へも進出し、現在の南端にあたりの大生産地であったまでを征服したが次第に前線が遠くなるにつれ兵站の問題が発生し、それ以上先へ進むことは出来なかった。 この遠征の指揮官は、次の国王となるモクテスマ・ショコヨツィンであった。 アウィツォトルの治世には、それまでテノチティトランなどの帝国中心都市のみに限られていた神殿の建設などの公共事業も積極的に推し進められ 、宗教的な統一が図られるようになった。 、アウィツォトルが死去し、モクテスマ・ショコヨツィンがとして王位につくと南方の太平洋沿岸へ遠征を行い、などを服従させて新たな領土を獲得した。 しかし、南端の (、)は抵抗を続けた。 モクテスマ2世は儀礼の強化などにより貴族と平民の間の差を確立する政策を取った。 また、モクテスマ2世は優れた指揮官であり、彼の時代にオアハカの大部分がアステカ領となり、また周辺諸国へも積極的に出兵していった。 に率いるスペイン人が到来した時点で、アステカの支配は約20万平方キロメートルに及び首都テノチティトランの人口は数十万人に達し 、当時、世界最大級の都市であった。 中心部にはやが立ち並びもたって大いに繁栄した。 この時アステカの勢力は絶頂に達しており、領域は本来の領土であるメキシコ盆地をはるかに越え、現在の、、、、、、の大部分、の南部、の海岸部を支配下におさめ、メキシコ中部をほぼ統一する中央アメリカ最大の帝国を築き上げていた。 ただし、にはが割拠しており、アステカと激しい戦いを連年つづけていた。 また、西部のタラスコ王国との戦いも膠着していた。 東に広がるのの諸国には進軍することはなかったが、商人(ポチテカ)による交易ネットワークによって結ばれていた。 1519年の状況はこのようなものであり、近隣諸国でアステカを打倒しうる勢力は存在せず、統治システムにも綻びは見られなかった。 スペインのアステカ帝国征服 [ ] 詳細は「」および「 ()」を参照 一の葦 [ ] アステカには、かつて(ウィツィロポチトリ)神に追いやられた、白い肌をもつ神が「一の葦」の年(西暦1519年にあたる)に戻ってくる、という伝説が存在した。 帰還したケツァルコアトルが、かつてアステカに譲り渡した支配権を回復すると信じられていた。 「一の葦」の年の10年前には、テノチティトランの上空に突然大きなが現れた。 また女神の神殿の一部が焼け落ちてしまった。 その後も次々と不吉な出来事が起こった。 アステカ人たちは漠然と将来に不安を感じていた。 そうした折であった「一の葦」の年の2年前(1517年)から東沿岸に現れるようになったは、帰還したケツァルコアトル一行ではないかと受け取られ 、アステカのスペイン人への対応を迷わせることになった。 滅亡 [ ] メソアメリカ付近に現れたスペイン人は、繁栄する先住民文化をキューバ総督に報告した。 1519年2月、ベラスケス総督の配下であったのは無断で16頭の馬と大砲や小銃で武装した500人の部下を率いて沿岸に向け出帆した。 コルテスはのマヤの先住民と戦闘を行い( ())、その勝利の結果として贈られた女奴隷20人の中からという先住民貴族の娘を通訳として用いた。 サン・フアン・デ・ウルア島に上陸したコルテスは、アステカの使者からの接触を受けた。 アステカは財宝を贈ってコルテスを撤退させようとしたが、コルテスはを建設し、アステカの勢力下にある (、)の町を味方に付けた。 さらにスペイン人から離脱者が出ないように手持ちの船を全て沈めて退路を断ち、300人で内陸へと進軍した。 コルテスは途中の町の多くでは抵抗を受けなかったが、アステカと敵対していたとは戦闘になり、勝利し、トラスカラと和睦を結んだ。 10月18日、 ()が起きた。 1000人のトラスカラ兵と共にメキシコ盆地へと進軍した。 11月18日、コルテス軍は首都テノチティトランへ到着し、モクテスマ2世は抵抗せずに歓待した。 コルテス達はモクテスマ2世の父の宮殿に入り6日間を過ごしたが、ベラクルスのスペイン人がメシカ人によって殺害される事件が発生すると、クーデターを起こしてモクテスマ2世を支配下においた。 1520年5月、ベラスケス総督はにコルテス追討を命じ、に軍を派遣したため、コルテスは120人の守備隊をに託して一時的にテノチティトランをあとにした。 ナルバエスがセンポアラに駐留すると、コルテスは黄金を用いて兵を引き抜いて兵力を増やした。 雨を利用した急襲でナルバエスを捕らえて勝利すると、投降者を編入した。 コルテスの不在中に、トシュカトルの大祭が執り行われた際、アルバラードが丸腰のメシーカ人を急襲するという暴挙に出た( (、))。 コルテスがテノチティトランに戻ると大規模な反乱が起こり、仲裁をかって出たモクテスマ2世はアステカ人の憎しみを受けて殺されてしまう (これについては、スペイン人が殺害したとの異説もある)。 6月30日、メシーカ人の怒りは頂点に達し、コルテス軍を激しく攻撃したので、コルテスは命からがらテノチティトランから脱出した。 この出来事をスペイン人は「悲しき夜( (、))」と呼ぶ。 王(トラトアニ)を失ったメシーカ人はを新王に擁立して、コルテス軍との対決姿勢を強めた。 7月7日、 (、)。 4月28日、で軍を立て直し、さらなる先住民同盟者を集結させたコルテスはテテスコ湖畔に13隻のベルガンティン船を用意し、数万の同盟軍とともにテノチティトランを包囲した( (、))。 1521年8月13日、コルテスは病死したクィトラワク国王に代わって即位していた王を捕らえアステカを滅ぼした。 植民地時代の人口減少 [ ] 詳細は「」を参照 その後スペインはアステカ帝国住民から金銀財宝を略奪し徹底的に首都・テノチティトランを破壊しつくして、遺構の上に植民地の首都()を建設した。 多くの人々がから伝わった疫病に感染して、そのため地域の人口が激減した 但し、当時の検視記録や医療記録からみて、もともと現地にあった出血熱のような疫病であるとも言われている。 その犠牲者は征服前の人口はおよそ1100万人であったと推測されるが、の人口調査では、先住民の人口は100万程度になっていた。 は暴虐の限りを尽くしたうえに、疫病により免疫のない先住民は短期間のうちに激減した。 社会構造 [ ] 国制 [ ] アステカは国制上はメシカ人のテノチティトラン・アコルワ人のテスココ・テパネカ人のトラコパンの三都市同盟であり、それはの同盟締結からの帝国滅亡にいたるまで全く変わらなかった。 同盟内でテノチティトランに次ぐ勢力を持ったのはテスココで、学問や文化の中心地となっていた。 とくにテスココ王のネサワルコヨトルは政治・文化面で様々な貢献をなした名君であり、その子であるネサワルピリも名君として知られ、この2代においてはテスココはアステカに対抗しうる力を持った存在であった。 トラコパンはこの三都市中では最も勢力が弱く格下扱いとなっていた。 しかし、徐々にテノチティトランおよびトラテロルコを中心とするメシカ(アステカ)が勢力を拡大していき、三都市同盟を代表するようになっていった。 アステカ帝国の歴代君主とはすなわちメシカ人のトラトアニを指す。 かなりの独立性を持っていたテスココも、ネサワルピリの死後急速にアステカの支配権が強まっていった。 三都市はそれぞれ自都市に属する属国を持っており、そこから貢納を受け取っていた。 各属国の王は以前からその土地を支配していた王であることもあったし、宗主国から任命された支配者であることもあった。 各都市はそれぞれ領域を広げていったが、アステカ帝国の特徴としては、帝国内に多数の独立勢力を抱えていたことである。 などのこういった独立勢力は、アステカと激しい戦闘を繰り広げ、周辺地域がすべてアステカの支配下に落ちても抵抗を続けていた。 これらの独立勢力はやがてスペイン人の侵入時にスペインと同盟を結び、兵力・物資の供給地並びに根拠地として、アステカ滅亡に大きな役割を果たした。 また、周辺諸地域への支配は厳しく、しばしば反乱が起き、それに対する再征服もよくあることであった。 こうした支配地域の反感は、スペイン人侵入時にそれら地域の離反という形で現れ、帝国の急速な瓦解の一因となった。 階級社会 [ ] アステカではに基づいたが行われ、王(トラトアニ)は王家の中から選ばれた。 王であるトラトアニはもともと外務をつかさどる長であり、内務をつかさどる長であるシワコアトルとは対になる存在であった。 シワコアトルの地位にはアステカ帝国成立期にはイツコアトルの弟であるが就いており、強い権限をいまだ保持していたが、トラカエレルの死後にその地位は急速に低落し、スペイン人が到来したころにはトラトアニは完全な絶対君主となっていた。 階層には、貴族に加え、戦争などで功績をあげて平民から引き上げられたが存在した。 大多数の平民はマセワルであった。 さらに(ポチテカ)は、平民ではあるが特別な法や神殿を持つ特権集団を形成していた。 最下級にやなどのために身売りした(トラコトリ)が存在した。 奴隷は自由身分に解放されることもあったが個人の所有物としての対象とされた。 軍国主義 [ ] アステカはの色彩の強い国家であった。 この性格は終末古典期以降のメソアメリカの諸国家に特徴的であり、アステカはテオティワカン衰退後の終末古典期から後古典期の中でとりわけ強大な国家であった。 やを中核とする強力なが征服戦争をくり返し諸国民に恐れられ、服属する国家から朝貢を受ける見返りに自治を与えて人民を間接統治した。 諸国を旅する商人は時に偵察部隊としての役割も果たし、敵情視察や反乱情報の収集に従事した。 武器としては鉄器は存在せず、青銅器も武器には使用されず、によるが中心であり、黒曜石の刃を木剣に挟んだや、木製の柄の先に黒曜石の刃を付けたであるやテポストピリー、手持ちの投槍器であるなどが主な武器であった。 道路網整備と経済の発達 [ ] アステカのカレンダー アステカは軍隊の迅速な移動を可能にするため道路網を整備していた。 この道路網を通じて諸地域の産物がアステカに集まりその繁栄を支えた。 テノチティトランの中心部では毎日市場が開かれたという。 基本的な商業活動はであったが、豆がとして流通し、カカオ豆3粒での卵1個、カカオ豆30粒で小型の1匹、カカオ豆500〜700粒で奴隷1人と交換できた。 トウモロコシや芋類・豆類などの、酒やなどの嗜好品、専門の職人によって製作された質の高い陶製品やさまざまな日用品が、市場で売買されていた。 こうした地域に根付いた商業のほか、長距離交易も行われていた。 長距離交易はによって行われており、の羽や、カカオといった熱帯産の高級品を主に取り扱っていた。 こうした商品の主な産地は東方のマヤ文明の諸都市やその近隣地方であった。 また、支配下諸地域からの貢納もこの道路網を利用して行われており、持ち込まれる大量の貢納品はアステカ経済の大きな一部分をなしていた。 食料 [ ] 「」も参照 アステカの食糧生産の基盤は、高い生産性を誇る農業である。 アステカの覇権以前はテノチティトランの島内にチナンパが造成されていたものの、テノチティトラン・トラテロルコ両市の食糧をまかなうにはとても足りず、食糧の安定供給は急務となっていた。 アステカが覇権を握ると勢力圏内に積極的にチナンパの造成を始め、とくにテスココ湖の南部には大規模なチナンパ地帯が造成されて穀倉地帯となっていた。 このほか、テスココ支配下のアコルワ人地域では段々畑が造成されるなど、食糧供給と農業開発にアステカの歴代君主は心を砕いた。 アステカの中心作物はであり、これは主穀であり経済の基盤ともなっていた。 トウモロコシはや(団子)、にして食べられていた。 このほか、アステカで主に栽培されていた作物には、、、、、、、などがあった。 飲料としてはから醸造される酒が重要であったが、より格の高い飲料としてはから作られるショコラトルが珍重されていた。 ショコラトルは価値が高く、原料のカカオ豆は貨幣として流通するほどだった。 また、としてはが珍重されていた。 文化 [ ] アステカ文明は、先に興った・・・を継承し、・・・に優れていた。 は存在せず、は利用はあったものの利用が主なものであり、日用品やなどはなどの石で造られたものが大半であった。 アステカは大規模な土木工事を盛んに行った国家であり、神殿の建設や水利工事などで高い技術力を持っていた。 特に水利工事は湖に囲まれているテノチティトランを都とするアステカにとっては非常に重要な技術であり、上記のイツコアトルによるイツタパラパン道の建設やモクテスマ1世によるテスココ湖中堤防の建設などの湖の治水が積極的に行われた。 このほか、塩水湖中にあり生活用水の不足しがちなテノチティトランに水を供給するため、モクテスマ1世はにチャプルテペク水道橋を建設し、西のの泉から湖を越えて市内に水を供給した。 アステカは、精密なによって現代に引けを取らない精巧な暦を持っていた。 アステカの暦は2つあり、占術に使う260日暦()と、国家行事を運営するためのである365日暦()の二つの暦の体系を持っていた。 この二つの暦が重なり合うのは52年に1度であり、そのためアステカにおいては52年を1つの周期として扱っていた。 アステカはそれまでの諸文明の神々を継承し取り入れ、複雑な信仰体系を構築した。 においてはアステカの民族神であるをはじめ、や、雨神など様々な神があがめられ、崇敬を受けていた。 アステカ神話においては世界の創造と破壊は過去4回起きており、現在の世界は5番目のものであると考えられていた。 にアステカ王アシャヤカトルによって奉納され、現代では最も高名なアステカの遺物のひとつとなっているには、この世界観や暦が刻まれている。 人身御供 [ ] 生贄の儀式。 石器のナイフで胸を裂き、心臓を取り出す アステカ社会を語る上で特筆すべきことはのである。 人身御供は世界各地で普遍的に存在したであるが、アステカのそれは他と比べて特異であった。 メソアメリカでは太陽は消滅するというが普及していて、人間の新鮮な心臓をに奉げることで太陽の消滅を先延ばしすることが可能になると信じられていた。 そのため人々は日常的に人身御供を行い生贄になった者の心臓を神に捧げた。 また人々は神々にや豊穣を祈願する際にも、人身御供の神事を行った。 アステカは多くの生贄を必要としたので、生贄を確保するために戦争することもあった(花戦争)。 に捧げられた生贄は、祭壇に据えられた石のテーブルの上に仰向けにされ、神官達が四肢を抑えてのナイフで生きたまま胸部を切り裂き、手づかみで動いている心臓を摘出した。 に捧げられた生贄は、神官達が生きたまま生贄から生皮を剥ぎ取り、数週間纏って踊り狂った。 人身御供の神事は目的に応じて様々な形態があり、生贄を火中に放り込む事もあった。 現代人から見れば残酷極まりない儀式であったが、生贄にされることは本人にとって名誉なことでもあった [ ]。 通常、戦争捕虜や買い取られた奴隷の中から、見た目が高潔で健康な者が生贄に選ばれ、人身御供の神事の日まで丁重に扱われた [ ]。 神事によっては貴人や若者さらには幼い小児が生贄にされることもあった。 歴代君主 [ ]• : ()• : 脚注 [ ] 注釈 [ ] []• アステカ王国がわずかな勢力のスペイン人に滅ぼされた理由が、白い肌のケツァルコアトル神が「一の葦」の年に帰還するという伝説があったためアステカ人達が白人のスペイン人を恐れて抵抗できなかったというためだったという通説については、異論を唱える研究者もいる。 大井邦明によれば、ケツァルコアトルが白人に似た外観であったというのはスペイン人が書き記した文書にのみ見られるという。 白人が先住民の支配を正当化すべく後から話を作った可能性があるという。 また、()によれば、アステカ側の年代記制作者が、わずかな勢力に王国が滅ぼされたことの理由付けとして後から話を作った可能性があるという。 実際の理由としては、アステカがそれまで経験してきた戦争は生贄に捧げる捕虜の確保が目的であり敵を生け捕りにしてきたのに対し、スペイン人達の戦い方は敵の無力化が目的であり殺害も厭わなかったこと。 また、スペインの軍勢の力を見せつけるべくチョルーラで大規模な殺戮を行うなどしたが、アステカの人々にとっては集団同士の戦いでの勝敗はそれぞれの集団が信仰する神の力の優劣を表していたこと。 そしてまた、スペイン人達は銃や馬で武装しており、アステカの軍勢は未知の武器に恐れをなしてたびたび敗走したこと。 スペイン人がアステカに不満を持っていた周辺の民族を味方につけたこと 、などが挙げられる。 これらの他、モクテソマ王自身が、不吉な出来事や自身が権力の座を失うことなどに不安を募らせ 、希望を失って首都を離れようとするなど 厭世的な気持ちに捕らわれていたことがアステカの軍勢の士気をも落としていただろうという指摘もある。 出典 [ ]• 23-26ページ• 95ページ• 98ページ• 75-76ページ• 76ページ• 35-49ページ• 140ページ• 53-61ページ• 146ページ• 78-79ページ• 80ページ• 38-43ページ• 43-45ページ• 46-50ページ• 51-57ページ• 66-67ページ• 62-66ページ• 73-79ページ• 80-87ページ• 91-93ページ• [ ]• 104ページ 参考文献 [ ]• 井上 2007 : 井上幸孝「アステカ社会における環境利用と自然観 湖の開発、水と山の儀礼」『ラテンアメリカ』坂井正人・鈴木紀・松本栄次編、・監修、〈朝倉世界地理講座 - 大地と人間の物語 - 14〉、2007年7月10日。 井上 2014 : 井上幸孝「34 スペイン征服 1 」『メソアメリカを知るための58章』井上幸孝編著、〈エリア・スタディーズ 130〉、2014年5月。 『アステカ王国 文明の死と再生』斎藤晃訳、〈 19〉、1992年9月。。 タウンゼント, リチャード『〈図説〉アステカ文明』監修、武井摩利訳、創元社、2004年8月。 他編『スペインの歴史』、1998年10月。。 土方美雄『メキシコ/マヤ&アステカ 写真でわかる謎への旅』辻丸純一構成・写真、、2001年8月。。 『ラテン・アメリカ史 1』増田義郎・編、〈新版世界各国史 25〉、1999年8月。。 増田 1999a : 増田義郎「第1章 先コロンブス期の文化」34-53ページ• 増田 1999b : 増田義郎「第2章 ヨーロッパ人の侵入」54-75ページ• 増田 2002 : 増田義郎『アステカとインカ 黄金帝国の滅亡』、2002年4月。。 The Oxford Encyclopedia of Mesoamerican Cultures. Oxford University Press. 68-73. 関連書籍 [ ]• 山瀬暢士『アステカ文明 発展と崩壊 : 1168-1620』太陽書房、2002年4月、第3版。。 関連項目 [ ] ウィキメディア・コモンズには、 に関連するメディアがあります。 外部リンク [ ]• (スペイン語)• 2014年8月12日時点のよりアーカイブ。 2014年8月12日閲覧。 (英語)• (『研究報告』、1985年3月) -.

次の