本能寺 の 変 信長 遺体。 本能寺の変で

織田信長の遺体はどこへ消えてしまったのか 異説も存在

本能寺 の 変 信長 遺体

日本史の中で、「鳴くよウグイス平安京(794年)」と共に、語呂合わせで覚えた方も多いかと思われるのが織田信長が明智光秀に討たれた、「イチゴパンツ(1582年)」の本能寺の変。 では、この時の織田信長の死因や遺体の在処ってどうなったんでしょうか。 織田信長が今も魅力を放って止まないのは、彼の人生もさる事ながら、むしろこの最期のシーンだったと言っても過言ではない位です。 これ、本当に日本史上未だにミステリーなのですが、実は色々な説が有ります。 織田信長の死因や遺体がどうなったのかを追ってみようと思います。 《目次》 ・何で織田信長は死んだのか? ・二つ考えられる死因 ・今なお揺れる織田信長の死の真相と遺体 スポンサーリンク 織田信長の死因は? 歴史上、とてつもなく名を馳せた人物は? と聞くと、まず10人中8人位は名を挙げるのが「織田信長」。 他にも、武田信玄や上杉謙信、楠木正成、源頼朝、徳川家康、豊臣秀吉など人によって違うかも知れませんが、織田信長の名前を知りませんと言う人はまず小さな子以外では居ないでしょう。 それだけ織田信長(以下、信長くんとします)の名を知らない人はいません。 そうですね、現代で言えば迷宮入り事件とでも言いましょうか。 では何故この信長くんの死因が「迷宮入り」なのか。 〜信長殺人事件としての本能寺の変〜 本能寺の変の主犯は「明智光秀」54歳(1528年生説の場合)。 出身は現在の岐阜県可児市の明智城で生まれたとされ、家柄は清和源氏の流れを汲む土岐氏一族と言われています。 信長くんに仕える様になる前は、越前一乗谷の朝倉義景を頼ってそこで10年仕えてたみたいですが、謎です。 永禄11年(1569年)の信長くん初上洛の際の「信長公記」に初めてその名前が登場するので、信長くんに仕えるようになったのは、結構中年になってからの40代だと思われます。 但し、朝倉義景に仕えるようになった事もそれまでも、経歴が非常に怪しいのでどこで何やってたのか殆ど記録がない状態。 ホント、この光秀と言う人は「蝮の道三」と呼ばれた美濃の斎藤道三並に履歴書は怪しいです 笑 その明智光秀が自軍の兵約1万3千を率いて、1582年6月2日早朝、京都本能寺に宿泊していた、主君織田信長を急襲。 信長くんは自害。 享年49歳。 ついでに近くの妙覚寺にいた信長くん嫡男の信忠も自害。 享年26歳。 ここまで見るとただの良くある家臣による謀反事件です。 問題は、信長くんの死に様が未だに確定されない事や、遺体が見つかっていない事などがミステリーの元になっています。 《2つ考えられる死因》 信長くんの死因は2つ考えられています。 1つは切腹による自害、そして火を放った御殿内での焼死です。 そのどちらも正しいと現代の歴史学会では定説になっています。 〜フロイス日本史に見る本能寺の変〜 まずここで最初に、信長くんに信任を得ていた、ポルトガルから来たカトリック司祭であり宣教師でもあった、ルイス・フロイスの記した「フロイス日本史」の一部を紹介します。 「本能寺の変の時、手と顔を洗い終え手拭いで身体を拭いていた信長に明智の兵士が、その背中に矢を放った。 すると信長はその矢を引き抜いて、鎌のような形をした長槍(薙刀か)を手にして出てきてしばらく戦ったが、腕に銃弾を受けると自らの部屋に入り戸を閉じ、そこで切腹。 その際信長は放火したので生きながら焼死したが、火事が大きくどのようにして死んだかは正確には分からない。 毛髪も骨も全て灰になって彼のものとしては地上に何も残存しなかった。 」(フロイス日本史 日本語訳抜粋より) 〜「信長公記」に見る本能寺の変〜 次に太田牛一の書いた「信長公記」に見る本能寺の変の下りです。 「(省略)信長は小姓たちに囲まれ朝の支度をしていた。 外が騒がしい。 しかも鉄砲を撃ちかける音が交じり始めた。 一体誰が企てた! それを聞くや「是非に及ばず」信長は声を振り絞った。 ついで急ぎ家来たちを集めた。 そして雲霞のごとく押し寄せる敵勢を自らの手で防ぐのであった。 明智ほどの男が起こした謀反である以上、もはや逃げ切れる術はないと思い切ったのである。 初めは弓もて戦っていた信長だったが、弦が切れるや得物を槍に持ち替えてなお戦い続けた。 だが、衆寡敵せず、敵が繰り出す鑓が肘を傷つけるに及び、万事ここに休したと悟ったのである。 信長はまず女たちを逃した。 ついでひとり御殿の奥深くに引き退き、戸を引き立てた。 そして何とも無念なことにそこで切腹して果てたのである。 誰が放った火だろうか、猛火が御殿を焼き尽くした後には、信長の形見は一片の骨とて残っていなかった」 〜共通する死因は〜 フロイス日本史と信長公記では、若干の表現の差はあれど、ほぼ同じ事が描かれています。 朝起きての支度の時間に急襲されている。 信長は最初は戦ったが致命傷を負って部屋の奥に入り切腹した。 信長の切腹後は御殿が火災となり、信長の遺体は見つからなかった。 この2つが共通しています。 フロイス日本史も信長公記も、日本史においては重要な一次史料として高く評価されているので、信長の本能寺の変での出来事はほぼ確定でしょう。 ですので、信長くんは本能寺の変の際においての死因は2つになります。 では何故それがまだミステリーのままなのか。 それは、火を放った事で御殿が大火災になってしまったので、遺体は全て燃え朽ちてしまい、発見されていない事にあります。 現代でも大火災などあると、そこに焼死体を発見しても性別はおろか、誰なのか?住民なのか? すら判別できない事はままあります。 日本家屋の大きな木造建築物が焼け落ちてしまったら、そこには当然膨大な量の残骸が残るだけ。 現代の捜査科学力を以ってしても、焼死体の身元不明が出るくらいですから、今から446年前のその当時の調査能力で、信長くんの遺体判別や遺体そのものを見つける事は、ほぼ不可能だっただろうと言う説もあります。 ましてや、本能寺は当時は寺というより「城郭」のような立派な防御施設も兼ね備えた建物で、そこには鉄砲の弾の硝石や爆薬などの備蓄物も相当量保管されていたと言います。 スポンサーリンク 〜これぞ武士の美学〜 当時の武士の常識的観念として「負けて首を取られて晒し首になるくらいなら、自害して首は渡したくない」と言う、一種の武士の美学がありました。 最早これは武士たちの間でのテーマです。 大将が切腹して果てたら、家臣たちは素早く大将の着衣や身につけてるもの全てを剥ぎ取って捨て去ります。 そして首は足で渾身の力を入れ踏み潰し、だれのものか判別不能にした上で土に埋めます。 これが当時の「忠臣の鏡」と言われたものです。 関ヶ原の合戦の際に西軍に属していた、大谷刑部吉継や島左近たちも方法で、自分の首級が東軍に渡る事を防いでいた様です。 〜飛び交う憶測〜 一説によれば、本能寺が燃え盛る中本能寺の僧たちが、信長くんの遺体をこっそり運び出したとか、僧侶のふりをした信長小姓たちが信長の遺体を近くの阿弥陀寺に運び出し、そこで火葬だけしてもらって残ったお骨を貰い受けて岐阜に帰ったと言う説などもあります。 風変わりな説としてあるのが「信長爆死説」です。 これは、信貴山に籠城して信忠軍に抵抗を続けた松永弾正久秀が、信長くんへの最期の抵抗で、信貴山城で爆死したと言う話に基づき、信長くんもこれを真似て爆死したのでは? と言うものです。 残念ながらこの説は全く信憑性ゼロ。 まず、松永弾正久秀は茶の湯の名器平蜘蛛を抱いて爆死なんかしていません。 あれは後世の創作である事が分かっています。 松永父子はきちんと武士らしく切腹自害して果てています。 それに仮に信長くんがいくら火薬や硝石の沢山備蓄している本能寺で爆死したとしても、それなら相当の音や煙が上がるはず。 それなのに一級史料には残念ながら一切その様な事は書かれていません。 「祖父物語」によると、森蘭丸が敵方に信長くんの遺体を渡してなるものか! と、切腹して果てた信長くんの遺体の上に畳を5〜6畳覆い被せたと有りますので、それを真実とすれば畳が上に乗った遺体は更に強く燃え上がり、灰になってしまう事は十分有り得る事でしょう。 《今なお揺れる織田信長の死の真相と遺体》 前項で信長くんの遺体は、切腹後火災の中で燃え朽ちて、何も見つからなかったと書きました。 本当に見つからなかったのでしょうか。 残念ながら当時の資料に頼っても、信長くんの遺体発見! は現在に至るまで見つかっていないのが現状です。 ただ、遺体のないまま信長くんの葬儀は、羽柴秀吉が天正10年10月15日に大々的に京都大徳寺で行なっています。 この大徳寺は臨済宗五山派といって、単純に言えば足利将軍家のお寺です。 そして五山派の中でも特にこの大徳寺と妙心寺は別格で朝廷の寺として名高いのです。 そして今もなお、信長くんの墓所が京都大徳寺総見院内にあります。 〜死の真相は? 〜 明智光秀の謀反が原因で間違いは有りません。 そして、彼は信長・信忠父子の命を奪ったにも関わらず、「信長の首級を取っていない(確認できていない)」と言う事実から、味方を付けることが出来ず2週間後に秀吉と直接対決。 琵琶湖の坂本城へ敗走の途中落ち武者狩りの農民の槍によって命を落とします。 その場所は、今も京都市伏見区小栗栖に「明智藪」として残っています。 信長くんの死因も、焼死と切腹までは分かっていても、どちらが先なのか未だハッキリと判然としていません。 ただ言えることは、現代も火災で死亡する原因は一酸化炭素中毒と全身への火傷によるダメージです。 恐らく、信長くんは奥の部屋で切腹後、回ってきた火の勢いで全身火傷若しくは一酸化炭素中毒で、絶命したのだと考えます。 《まとめ》• 織田信長の死因は、本能寺の変での切腹と、火災による一酸化中毒や全身への火傷によるもの。 織田信長の遺体は、残念ながらその際の火災で全て焼失したと思われる。 信長くんは、この劇的な最期が有るからこそ今もなお私たちの目を惹きつけて離しませんね。 歴史に「もし〇〇だったら・〇〇してれば」の類いの「たら・れば」話しは禁物ですが、信長くんがもしあの時死んでいなかったら。 信忠くんが助けに駆けつけて光秀を討って居たら。 こう考えると「信玄があと10年長生きしていたら」よりももっとスリリングでワクワクする歴史になった様な気がしてなりません。 良く岐阜城へ訪れる事が有りますが、あの山頂から見る岐阜の城下一帯と長良川の景色は最高です。 あそこへ行く度に、信長くんも信忠くんもこの景色を眺めながら、何を思い何を話していたのかなと考えます。 安土城は次男の信雄(のぶかつ)が本能寺の変後に燃やしてしまったので何も語りません。 今後まだ信長くん研究は続くでしょう。 その中でまだ見ぬ何かが発見される事を切に願うのみです。

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【京都】本能寺跡の場所は?現在は?石碑の前で信長の首の行方を…

本能寺 の 変 信長 遺体

織田信長の遺体はいったいどこへ消えてしまったのか? 1582(天正十)年6月2日、早朝。 まだ夜が十分明けきっていない頃のこと。 明智光秀率いる1万3000余の兵が本能寺を取り囲む。 中には光秀が仕えたかの織田信長が眠っている。 謀叛を起こされた信長は、光秀軍の急襲によって周囲の者が次々と倒れていく中で行く末を悟ったのか、肘に鑓傷を負うと建物の奥深くに移り、納戸の入り口の戸を固く閉ざして割腹して果てました。 これは『信長公記』にて描かれた信長の最期ですが、信長の亡骸は光秀軍の必死の捜索にもかかわらず、ついに発見されませんでした。 では、彼の遺体はいったいどこへ消えてしまったのでしょうか。 実は手掛かりといえる証拠がいくつか残されています。 その一つといえるのが、静岡県藤宮市に建つ西山本門寺です。 地元に伝わる話によると、ここの境内の本堂奥の大柊の根本に信長の首を埋めたとされているのです。

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戦国最大のミステリー本能寺の変~信長の遺体はどこへ?

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天正10(1582)年6月2日の早暁、水色桔梗の旗にとり囲まれた信長公の宿所である本䏻寺 [a] 本能寺は幾度か火災に遭遇したため「匕」(火)を重ねるを忌み、「能」の字を特に「䏻」と記述するのが慣わしとなった。 また、ここで発掘された瓦にも「䏻」という字がはっきりと刻まれていたらしい。 本記事でも特に断りがない限り「本䏻寺」と記す。。 明智日向守光秀の軍勢およそ1万3千が押し寄せた当初、信長もお小姓衆も下々の者らが喧嘩をしているものと思ったそうだが然に非ず、明智勢が鬨の声を上げて本䏻寺の御殿に鉄砲を撃ち込んできた。 寝所に居た信長は小姓の森蘭丸に「さては謀叛だな。 誰の仕業か。 」と問いただすと、蘭丸が「明智日向守の軍勢と見受けします。 」と応えた。 信長は「是非に及ばず」( We have no other way…)と一言。 明智勢は間断なく御殿へ討ち入ってくる。 表の御堂に詰めていた御番衆も御殿へ合流し一団となって防戦した。 信長は初めは弓をとり、二、三回取り替えて弓矢で応戦したが、どの弓も時が経つと弦(つる)が切れてしまったので、その後は槍で戦ったが、肘に槍傷を受け殿舎に退いた。 既に殿舎は火をかけられて近くまで燃え広がっていたため、敵に最後の姿を見せてはならぬと思ったのか、殿舎の奥深くへ入り、内側から納戸を閉めて無念にも自刃した。 同じ頃、嫡子信忠は妙覚寺に投宿しており、変を知って討って出ようとするが京都所司代・村井貞勝父子に止められ、隣接する二条新御所 [b] これは織田信長が室町幕府第15代将軍・足利義昭のために築いた旧二条城ではなく、天正4(1576)年に二条衣棚にあった妙覚寺に隣接する関白二条晴良の屋敷跡を信長自らの宿所とするために築いた邸宅で、小さいながらも堀を持つ砦であった。 のちに皇室に献上した。 に立て籠もるが、明智勢は京都御所付近から矢や鉄砲を打ち掛け、信忠も抗戦叶わず自刃した。 これは信長の旧臣・太田和泉守牛一が綴った織田信長一代記の「信長公記(しんちょうこうき [c] 音読みである。 江戸時代には敬意を表す意味で人名を音読みする習慣があった。 )」最終巻に記されている一説である。 一昨年は平成27(2015)年2月、大阪へ出張した週末に京都まで足をのばして織田信長公の墓所を中心に、「本䏻寺の変」ゆかりの場所をいくつか巡ってきた。 信長公の墓所は京都市内だけでもいくつかあるので、その中から阿弥陀寺(京都市上京区)と大徳寺総見院(京都市北区)を選択した。 そして現在は住宅街の一角にひっそりと残る旧本䏻寺跡の他、京都御所近くにあった旧二条城跡(共に京都市上京区)、さらには妙覚寺(京都市上京区)も訪問してきた。 妙覚寺は本䏻寺の変のあと秀吉の時代に現在地に移転したものであるが、その昔は二条衣棚(にじょう・ころもだな)に建っていた頃は上洛した信長公が宿所としてよく利用していたところである。 こちらが、この日に巡ってきた京都市上京区から北区にある主な史跡や墓所( 赤枠の場所): 本䏻寺の変ゆかり地巡り Google Mapより この日は、新大阪から9:00amすぎのJR東海道本線新快速に乗り京都駅に到着したのが9:30amちょっと前。 そこから、まずは京都市営地下鉄の烏丸(からすま)線で鞍馬口へ移動して阿弥陀寺にて信長公と左近衛中将信忠公らの墓所を参拝し、次に大徳寺(総見院)まで徒歩30分ほどかけて移動し、その途中で(秀吉時代の)妙覚寺にも立ち寄った。 このあとは大徳寺へ行ったのだが、残念ながら総見院にある信長公や正室(帰蝶姫)・側室(お鍋の方)らの墓所は拝観謝絶のため観ることができなかった。 仕方がないので拝観が可能な他の塔頭(たっちゅう)のうち高桐院で肥後細川氏歴代の墓所(細川幽斎公・細川三斎公・細川ガラシャら)を、龍源院では自身初ではあるが素晴らしい日本庭園を観覧してきた。 その後はふたたび徒歩30分ほどかけて烏丸線北大路駅まで移動し、そこから地下鉄で丸太町まで移動して信長公が室町将軍のために造営した旧二条城跡と京都御所内にある旧二条城の石垣を見てきた。 ここで午前の部は終了。 午後からは烏丸線烏丸駅まで移動し、そこから旧本䏻寺跡や南蛮寺跡を見てきた。 そういうことで時間があれば徳川時代の二条城 [d] 関ヶ原の戦に勝利した徳川家康が上洛時の宿舎として慶長6(1602)年から5年をかけて西国諸大名らに築城させた城。 慶長16(1611)年に二の丸御殿において家康と豊臣秀頼の会見が行われた。 や秀吉が再建した本能寺 [e] 本䏻寺の変で焼失後、天正17(1589)年に豊臣秀吉より鴨川村(現在の寺町御池)の地に移されて再建されたもの。 にも行ってみようと思ったが、残念ながら全くそんな時間的余裕はなかった。 とある。 ただし、この記録はのちに阿弥陀寺と共に焼失しており、江戸時代に入った享保16(1732)年に記憶を頼りに書き直されたものであるため史料的価値は低いと云われている。 そして、こちらが織田信長・信忠討死衆墓所: 右手が信長公、左手が信忠公の墓石 本䏻寺の変があった頃、西国の雄・毛利家と対峙していた羽柴秀吉が包囲から俗に云う「中国大返し」をして山崎の合戦で仇討ちを行い、清洲会議で主導権を握ったあと、自分を喪主として信長公の一周忌を執り行ないたいとして清玉上人に懇願したところ、それは信長公亡き後の織田家の乗っ取りに近い振る舞いであり、人の道に非ずと非難して断ったと云う。 そのため、やむを得ず秀吉は大徳寺に総見院を建立して一周忌を執り行ったらしい。 のちに天下人となった秀吉は、この時の所業を許さず、清玉上人が亡くなった後に阿弥陀寺の寺域を大きく削ったと云う。 さらに信長・信忠父子の墓所を囲むように、旧本䏻寺にて討死にした小姓衆や近習らの墓石が建っていた: 妙覚寺 ちょうど阿弥陀寺と大徳寺の中間あたりに建つ妙覚寺は、京都日蓮宗名刹三具山および京都十六本山の一つで、開山は竜華院日実上人である。 信長は都には本格的な居館を持つことはなく、上洛するともっぱらこの妙覚寺や旧本䏻寺を宿舎としていた。 この妙覚寺は初めは四条大宮、ついで二条衣棚(現在の中京区大恩寺町あたり)に移り、最後は豊臣秀吉の京都都市整理に伴い現在の場所に移転してきた。 従って信長や信忠が投宿していたのは二条衣棚にあった妙覚寺である。 そして天正10(1582)年の本䏻寺の変では、ここに投宿していた嫡男の信忠が京都所司代の村井貞勝父子らと手勢500を率いて二条新御所へ向かい立て籠もって抗戦したという。 この時、明智勢は旧本䏻寺と二条新御所には放火はしたが、近くにあった妙覚寺が焼失したという記録は無いため全くの無傷であったと思われる。 その翌年の天正11 1583 年に秀吉の命で現在の場所に移転し、天明8(1788)年には天明の大火により焼失するが、その後に再建されて現在に至る: 本䏻寺跡 旧本䏻寺は応永22(1415)年に日隆聖人が開山した「本応寺」が始まりとされる。 その後、一度は破却されたが再建され、永享5(1433)年には六角大宮に広大な寺地を得て移築され本門八品能弘の大霊場として栄えると「本䏻寺」と改称された。 そして天文5(1536)年には延暦寺の僧兵らの乱により堂宇はことごとく焼失したが、天文14(1545)年には四条西洞院(よじょう・にしのとういん)の此の地に移築されて、壮大なる堂宇の再建を見た。 そして天正10(1582)年6月2日、「本䏻寺の変」によって信長公とともに炎上した。 この時の本䏻寺は、現在は京都市上京区元本能寺南町の住宅街の一角に石碑が建っているのみである。 但し、実はこの石碑も老人ホーム建設のために東へ移動させられたものらしい: 新しい本䏻寺跡の碑 信長公記では同寺で信長が自刃したとあるが遺体は発見されておらず、その真相は400年以上も経過した現代でも謎に包まれたままである。 なお現在の「(大本山)本能寺」(京都市中京区下本能寺前町)は秀吉が天正17(1589)年に再建したものである。 そして、本䏻寺の変を聞きつけた秀吉が「中国大返し」をして急ぎ畿内へ戻り、山崎の合戦で明智日向守の軍勢を破ったのち、敗れた光秀が落武者狩りで致命傷を受け自刃すると、信長の遺児・織田信孝はこの旧本䏻寺の焼け跡に光秀の首級と胴体を晒して供養したと云う。 また平成19(2007)年の発掘調査では本䏻寺の変で焼けたとみられる瓦や堀跡が発見された。 次回は機会あれば、現在の「大本山本能寺」にある信長公廟を参拝したい。 本䏻寺跡 京都府京都市上京区元本能寺南町 小川通 信長の首洗い井と南蛮寺跡 本䏻寺跡から徒歩5分ほどのところにあるは、そのによると旧三井財閥の総本家である三井発祥の地に建てられた病院で、さらに古文書には: 三井邸西南隅に極めて清涼にして自らあった名水肉桂水なる井戸があったが、応仁の乱以後その所在がわからなくなった。 とあり、邸内には「信長の首洗い井」と称する池があると記載されているのだとか。 先に紹介したように、本䏻寺の変を聞いて駆けつけた阿弥陀寺の清玉上人は信長公を火葬し「白骨を法衣に包んで」帰寺したとされるが、寺内の一隅で火葬を行って白骨にしたと云う説は疑問 [g] 最新式の重油焼却炉で千度以上の火力でさえ完全に骨にするには一時間二十分かかり、蒔などを用いる昔式の野辺の送りだと、骨にするのに一晩はかかるらしい。 が多く、おそらくは「白骨を法衣に包んで」ではなく「首級だけを法衣に包んで」本䏻寺の北東にある阿弥陀寺に向かっていた途中、満々と清水を湛えた池があったので、ひとまず公の首級を洗って綺麗にしたと云う方が話の筋がとおるのだとか。 ちょうど、この碑が建つ北側の姥柳(うばやなぎ)町辺りにあったとされる。 永禄4(1561)年には、この附近に三階建ての礼拝堂が設けられ、数々の迫害に遭いながらも宣教師は布教に努め、信者は増加した。 天正4(1576)年には、京都所司代・村井貞勝の援助により古くなった礼拝堂が再建されミサが執り行われた。 これが南蛮寺であると云う。 しかし本䏻寺の変のあとの天正15(1587)年、九州征伐を終えた豊臣秀吉は宣教師追放令を発し、キリスト教弾圧に転じた。 南蛮寺もその時に破却され、この地に復興されることはなかったと云う。 南蛮寺にあったといわれる鐘は、現在は妙心寺塔頭春光院に保存されているらしい。 信長の首洗い井 京都市中京区六角通新町西入西六角町109 京都逓信病院裏手 旧二条城推定敷地 その後、信長は旧二条城から義昭を追放し、時の皇太子誠仁親王に献上し「二条御所 [h] 織田信長が烏丸-室町の御池上る付近に設けた城館の「二条新御所」とは別物である。 」として使われていたが、室町幕府の滅亡に伴い廃城となった。 天正4(1576)年に旧二条城は解体され、安土城築城に際し建築資材として再利用されたと云う。 尚、現在の二条城(京都市中京区二条城町竹屋町通)は関ヶ原の戦に勝利した徳川家康が上洛時の宿舎として利用するために慶長7(1602)年に築いたものである。 そして地下鉄烏丸線の工事に伴う発掘調査で丸太町上るに埋れていた石垣が発見された。 これにより、京都御苑椹木口を入った北側、旧二条城の敷地の一部が京都御苑内の南西側に広がっていたことが判明した。 こちらが京都御苑内に復元された「推定旧二条城の復元石垣」: a. また、ここで発掘された瓦にも「䏻」という字がはっきりと刻まれていたらしい。 本記事でも特に断りがない限り「本䏻寺」と記す。 のちに皇室に献上した。 江戸時代には敬意を表す意味で人名を音読みする習慣があった。 慶長16(1611)年に二の丸御殿において家康と豊臣秀頼の会見が行われた。 カテゴリー•

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