ベトナム ピエタ。 ハンギョレ・「ベトナムピエタ」像、江汀村の懐に抱かれる

韓国軍のベトナム戦争虐殺、被害者を慰霊する銅像を建立へ 作ったのは「慰安婦像」の夫妻

ベトナム ピエタ

「ベトナムピエタ」像、済州に建設される 登録 : 2017. 21 02:38修正 : 2017. 21 07:29・ハンギョレ 韓ベ平和財団、ベトナム戦終戦42周年迎え 今月26日、済州江汀村で記者会見とともに ベトナム戦争における韓国の責任を問うベトナムピエタ銅像の除幕式開催 24~28日、文化祭やトークコンサート、歴史講演も ベトナム戦争における韓国の責任を問うベトナムピエタ ベトナム語名:最後の子守唄 銅像が済州 チェジュ 江汀 カンジョン 村に建設される。 財団法人韓ベ平和財団(理事長、カン・ウイル・カトリック済州教区長 は、26日午後3時から済州江亭村にある聖フランシスコ平和センターで、ベトナム戦終戦42周年を迎え、ベトナムピエタ銅像の除幕式を開くと20日に明らかにした。 ベトナムピエタは、ベトナム戦争当時、韓国軍による民間人虐殺犠牲者の母親と無念の死を遂げた名もない赤ちゃんたちの魂を慰めるため、「平和の少女像」を作った作家のキム・ソギョン、キム・ウンギョン氏夫妻が製作した。 韓ベ平和財団は昨年、ベトナム戦終戦記念日に合わせてベトナムピエタの原型を公開し、ベトナムのダナン博物館とベトナム国民詩人のタンタオ氏にベトナムピエタ銅像 ミニチュア を寄贈した。 今回の除幕式は、韓ベ平和財団がベトナムピエタ銅像の設立のための募金活動を通じて、韓国とベトナムにそれぞれ銅像を建立する計画のもと、今年の終戦記念日に合わせて最初のベトナムピエタを建てたことを記念するためのものだ。 ベトナムピエタの銅像が建設される済州江汀村の聖フランシスコ平和センターは、「生命と平和の風、平和のための連帯」を夢見て2015年に作られた。 その日以来、平和を念願する熱い魂が江汀に集まり、10年が過ぎて平和の名のもと、ベトナムピエタ像が江汀に宿ることになった」と話した。 行事が開かれる4月26日は江汀村が海軍基地の誘致を決定してから10年 2007年4月26日 になる日だ。 ベトナムピエタ銅像の除幕式の前後には関連イベントも開かれる。 24日夜7時には済州市耽羅図書館の隣の訪逸里(パンイルリ)公園にある「平和の少女像」前で、作家のキム・ソギョン、キム・ウンギョン夫妻と共に「月曜文化祭」が開催され、25日夜7時には、江汀村の平和センターで「私たちが知らなかったベトナムの記憶」をテーマに、和平トークコンサートが行われる。 韓ベ平和財団のク・スジョン理事、ハンギョレのコ・ギョンテ記者、キム・ソギョン、キム・ムウンギョン夫妻も出席する。 28日午前10時には済州教育大学で「ベトナム戦争の記憶と韓国の戦争記念」をテーマにした講演会も開かれる。 韓ベ平和財団は韓国とベトナムが経験した傷と苦痛を治癒し、境界を越えて平和と共存の未来を切り開いていくために、2016年4月に発足し、翌年2月に設立された。 ホ・ホジュン記者 お問い合わせ japan hani. hani. html 訳H. J 1483字.

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[ルポ]「ベトナムピエタ像と少女像、戦争加害に対する謝罪と反省の面では本質的に同じ」 : 日本•国際 : hankyoreh japan

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「ベトナムピエタ」像、江汀村の懐に抱かれる 登録 : 2017. 27 03:22修正 : 2017. ベトナムと済州 チェジュ が平和の名で出会った。 ベトナム戦争当時、韓国軍による民間人虐殺犠牲者の母親と無念の死を遂げた名もなき赤ちゃんたちの魂を慰めるために制作された「ベトナムピエタ」像が26日、「平和の島」済州の江汀(カンジョン)村に建てられた。 今月30日はベトナム戦争終戦42周年になる日だ。 また、済州江汀村への済州海軍基地の誘致が決まってから10年になる日でもある。 財団法人韓ベ平和財団 理事長カン・ウイル主教・カトリック済州教区長 は同日午後、10年間にわたり海軍基地建設反対闘争を繰り広げてきた済州江汀村の聖フランシスコ平和センターで、ベトナム戦争終戦42周年記念記者会見と共にベトナムピエタ像の除幕式を行った。 ベトナム戦争を乗り越え、ベトナムとベトナム人たちが平和を渇望しているように、(済州)四・三事件の廃墟を乗り越えて立ち上がった済州と、基地反対闘争を通じて生命平和村に生まれ変わった江汀村も、平和を渇望している。 この日造成された追悼空間にはベトナムピエタ像だけでなく、平和に向けた詩が壁に刻まれ、江汀平和活動に参加した米国人のウィリアム・ジェローム・ビックス神父 1928~2015 の浮彫像と遺体も安置された。 カン・ウイル理事長は同日、記者会見で「ベトナムピエタは戦争で亡くなったすべての尊い命を胸に抱き、平和の子守唄を歌う。 これだけでは韓国の謝罪を伝え切れないが、『ベトナムピエタ』を出発点にしたい」としたうえで、「『平和は平和のまま生きていくよう、そっとしてくれ』というベトナムの代表的な詩人タンタオの言葉は、江汀に対するベトナムの心だ。 ベトナムピエタが江汀と出会った理由だ」と話した。 カン理事長は「堕落した政権の没落と、それに続く(セウォル号の)真実の引き揚げは、私たちが住むこの地の現在であり、私たちが見守ってきた歴史の真理」だとしたうえで、「私たちが認知できず、歴史の行間に消えていったベトナム戦争当時の韓国軍による民間人虐殺の真相究明は、必ず行われなければならない。 私たちの兄弟や隣人を戦場に送り出した私たち皆の反省や謝罪も伴わなければならない」として、真実究明を求めた。 韓ベ平和財団は、ベトナム戦当時、韓国軍のベトナム民間人虐殺に対する韓国社会の反省と省察を通じて平和と共存の未来を切り開いていくために、今年2月に設立された。 ホ・ホジュン記者 お問い合わせ japan hani. hani. html 訳H.

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[寄稿]「ベトナムピエタ」像の除幕によせて : 社説・コラム : hankyoreh japan

ベトナム ピエタ

『サン・ピエトロのピエタ』はミケランジェロの数ある彫刻の中でもと並ぶ最高傑作である。 ピエタは聖母子像の一種であり、に処されたのちにから降ろされたと、その亡骸を腕に抱くをモチーフとする宗教画や彫刻などのことである。 ミケランジェロが制作した4作品(ただし、完成したのは『サン・ピエトロのピエタ』のみ)の通称と制作年、現在の収蔵場所は以下の通りである。 『 サン・ピエトロのピエタ』( - 、)• 『 フィレンツェのピエタ』(? - 、、ドゥオーモ博物館)未完成• 『 パレストリーナのピエタ』(? - 、フィレンツェ、)未完成• 『 ロンダニーニのピエタ』( - 、、)未完成 とりわけ『サン・ピエトロのピエタ』は、他の芸術家によっても同じ題材で数多く作られたピエタと比較しても肩を並べるもののない傑作であり、これによってミケランジェロの名声は確立された。 また、視力を失いながら手探りで制作を続けたといわれる4作目『ロンダニーニのピエタ』はミケランジェロの遺作となった。 『サン・ピエトロのピエタ』。 概要 『 サン・ピエトロのピエタ』( — )はの収蔵の彫刻の一つであり、「ピエタ」を題材とする数多の作品の中でも第一に挙げられるものである。 古典的な調和、美、抑制というの理想の最終到達点ともいうべき完成度を誇り、ミケランジェロの数多い作品の中でもとりわけ洗練され精緻を極めたものとなっている。 完成まで ミケランジェロは故郷の政情不安や芸術の中心地への関心からフィレンツェを離れて以来ローマに滞在し、この地でリアリオ枢機卿のために『』の彫像などを作っていた。 そのミケランジェロのもとへ、同地に大使として派遣されていた元サン・ドニ修道院長のフランス人ジャン・ド・ビレール・ド・ラグロラからピエタの制作依頼が入った。 枢機卿は自分の葬儀の記念のためのピエタ像を求めていたのである。 、枢機卿とミケランジェロは金貨450の報酬で契約を交わした。 同年12月、ミケランジェロはみずから石切り場へ出向いてを手に入れ、制作を開始した。 枢機卿が定めた制作期限は8月であった(この月の6日に枢機卿は死去した)が、ミケランジェロがこれに間に合わせることができたのかどうかは定かではない。 ミケランジェロはその後5月にフィレンツェへ戻るが、その間に作られた作品がわずかに未完成の絵画一枚しかないことから、少なくともまでは大作ピエタのために忙殺されていたのだろうという推測が一般的である。 イエス・キリストの亡骸を抱きながら悲嘆に暮れる聖母マリアという題材は、フィレンツェの画家たちのあいだには先例があるものの、イタリアの彫刻でこれが扱われるのはきわめて斬新なことであった。 しかし北方、とりわけ枢機卿の故郷フランスやドイツでは伝統的にピエタの木像が作られ、の典礼などで用いられていた。 またボローニャのサン・ドメニコ教会にはドイツ人の手になるピエタ像があったことなどから、ピエタの制作に際してミケランジェロがこれらの先行作品のことを念頭に置いていたかもしれないことは充分に推測可能である。 これらの先例を独特の手法で消化吸収しながら、ミケランジェロは彫鏤を重ねた。 完成後 およそ2年をかけてミケランジェロは大理石の一枚岩からかつてなく壮麗な彫刻を創り上げた。 制作にあたり「ピエタ」という題材について彼の下したは、過去の他の芸術家たちとは大きく異なるものであった。 失意に沈む年配の女性として表現されるのが通例であったの姿を、ミケランジェロは若々しく穏やかで神々しい女性に仕立て上げたのである。 息子よりも若く見えることについて枢機卿は「の間違いではないか」と非難した(ドレスの裾からマリアの爪先がわずかに覗いていることからも、この非難は的外れなものではない)が、ミケランジェロは「原罪のない聖母マリアは歳をとらない」と断言した(解釈については後段で詳述)。 また磔刑の傷跡は小さな釘の跡と脇腹の傷だけに限定されており、足は無傷である。 『サン・ピエトロのピエタ』が最初に設置されたのは現在のサン・ピエトロ大聖堂ではなく、その南翼廊近くのサン・ペトロニッラ礼拝堂にあるジャン・ド・ビレール枢機卿の墓の上であった。 この礼拝堂はのちに大聖堂再建計画にともないを改築するためによって取り壊されることが決まり、ピエタはサン・ピエトロ大聖堂内へ移されることとなった。 その後もピエタは教会内を何度か移動し、1749年に現在の位置、のに入って右側すなわち北面にある第一礼拝堂(と聖セバスティアヌスの祭壇のあいだ)に移された。 この礼拝堂は、教皇が礼拝の儀式を執り行なう前に法衣をまとう場所となっている。 ピエタ(部分)。 左肩から右脇へ垂れた帯の上にミケランジェロの現存する唯一の署名がある。 の『』によれば、ピエタの設置を終えてまもないころに「あれは二流彫刻家のクリストフォロ・ソラーリ()が創ったものだ」という噂がささやかれているのを耳にしたミケランジェロは怒りにかられ、夜中に教会へ忍び込んでマリアの肩から胸に下がる飾り帯の部分に「MICHAELA2997GELUS BONAROTUS FLORENTIN[US] FACIEBA[T](フィレンツェの人ミケランジェロ・ブオナローティ作)」と刻み込んだという(右写真参照)。 のちにミケランジェロは発作的にこうした行為に出たことを後悔し、それ以後けっして自分の作品に名前を入れようとはしないことを誓った。 そのため、『サン・ピエトロのピエタ』は彼がみずから署名を入れた唯一の作品となった。 後年、ピエタは少なからぬ損傷を被っている。 にはこの作品のあまりの美しさに正気を失った男によってマリアの左手の指四本が折られ、ジュゼッペ・リリオーニ(Giuseppe Lirioni)によって修復されているが、このときに修復者がマリアの仕種をより美しく見せようと誇張するなどの改竄を行なったのではないかと疑う研究者と、それを否定する研究者とに二分されている。 最も深刻な被害としては、(の日)に発生した、精神を病んだ地質学者()が「俺はイエス・キリストだ」と叫びながら鉄鎚でマリアを叩き壊したという事件がよく知られている。 事件後には綿密な修復作業を終えてサン・ピエトロ大聖堂の元の場所に戻されたが、現在では防弾ガラスのパネルによって保護されている。 なお公認のレプリカがバチカン博物館の他のとののにあるが、この修復作業のさいにはポズナンのレプリカが逆にモデルとして参照された。 構成 本作はに典型的な三角形の構図を取っており、聖母マリアの頭を頂点としながら、底辺となる台座()に向かって他の二辺となるマリアのドレスの襞が徐々に広がってゆくことで三角形を形づくるようになっている。 この三角形の上に、座っているマリア(垂直方向)と横たわるイエス(水平方向)を直交させて重ねるというのがミケランジェロのアイディアであった。 しかし、ピエタにおいてイエスをマリアの膝の上に載せて描くのは絵画においては珍しくないが、彫刻においては困難であり、イエスがマリアにもたれかかるような形をとることの方が多い。 成人男性であるイエスの頭や足は当然マリアの膝からはみ出ることとなり、その大理石の重さを支えるものがなくなるという即物的な理由からである(マリアのドレスは、三角形を描くという審美的な役割だけでなく、横たわるイエスの頭や足を支えるという物理的な役割をも果たしている)。 『のピエタ』。 比較すると本作におけるマリアがいかに大女かが分かる。 この無理を犯すためにミケランジェロはあえて二人の像の均整を取らないという方策に出ており、このイエス像の大きさが等身大のものであったとすると、同じ縮尺で換算したマリアの身長はイエスより大きくなってしまうという不自然さを残した(とはいえ、マリア像の大半は彼女のドレスの内に隠されているため、まったく自然に見えないわけではない)。 しかし、これはミケランジェロの設計ミスではない。 例えばなども下から見上げたときに均整の取れた肉体と映るよう設計されているため、真横から眺めるとどことなく不恰好に見える。 同様の作為が施されたピエタ(前述の通り当初は別のところに展示されていた)の設置場所を変えたために生じた不自然さであり、はじめから高所へ設置されることに決まっていたならば、観覧者のを逆利用して補正するように変形することがミケランジェロに可能だったことは明らかである。 解釈 聖母マリアが非常に若々しく表現されているという特色については、さまざまながなされている。 ミケランジェロ自身が彼の伝記作家であり彫刻家仲間でもあったアスカニオ・コンディヴィに語った、「マリアの若さは彼女の不滅の純潔を象徴しているのだ」というものがその筆頭である。 曰く、 純潔な女性がそうでない女性よりも瑞々しいままでありつづけるということを君は知らないのか? いわんやマリアにおいておや、だ。 彼女は肉体を衰えさせるような劣情を一度も抱いたことがないのだからな。 次いでよく知られる解釈は、ミケランジェロがの『』から強く影響を受けたというものである。 この詩篇に対するミケランジェロの熱中ぶりは、にいたころは給料を支払ってまで『神曲』を暗誦できる者を傍に置いていたという逸話によっても知られる。 「天国篇」第33歌において、マリアのために祈りを奉げる聖ベルナルドの「 Vergine madre, figlia del tuo figlio (母なる処女、汝が子の娘)」という科白がある。 マリアが「自分の息子の娘」になるのは、イエス・キリストはの位格の一つであるため、マリアは(他のすべての人間と同様に)イエスの子であるが、イエスの母であることもまた事実だという神学的な理屈だが、ミケランジェロはこれに依拠していたのだという説である。 第三の解釈は、前記引用文の後に続けてコンディヴィが記したミケランジェロ自身の言葉である。 聖母マリアのこうした瑞々しさと華やぐ若さは、自然の摂理によってだけではなく、神の力によっても支えられているものなのだ。 また、鑑賞者が実際に眼にしているのはまさに幼子のイエスを抱いているマリアの姿に他ならないのだとする説もある。 マリアの若々しい容貌や穏やかな表情に加えその腕の位置などは彼女が自分の幼い子供を見つめているさまを表現しており、鑑賞者はそこに将来のイエスの姿を映し見ているのだというのである。 なお、ミケランジェロ自身は6歳のときに母をなくし、その後里子に出されている。 そこで、亡き母を思い描いて聖母に投影したという見方もある。 またカトリック教会には、聖母マリアの母が、原罪なくマリアを懐妊したという教義が存在する(聖母の)。 したがって聖母マリアは死を免れることになる。 このために、カトリック圏で描かれる聖母マリアはほとんどすべて若い女性の姿を取り、老いた聖母の図像は皆無である。 なぜなら、老いは死の前兆であるので、死を免れたマリアは老いることもない、ということになるからである。 ピエタの聖母が、処刑当時30歳前後と推定されるイエスの母としては若すぎる背景には、このような神学的観念も影響していると考えられる。 フィレンツェのピエタ 『フィレンツェのピエタ』。 概要 ミケランジェロが手がけた2つ目のピエタは、現在の収蔵場所であるフィレンツェのドゥオーモ博物館にちなんで『 フィレンツェのピエタ』または『 ドゥオーモのピエタ』と呼ばれる。 正確な制作年代は明らかになっていないが、コンディヴィの伝記やヴァザーリの証言などから、 - に着手して - まで制作を続けていたことはほぼ間違いのないこととされている。 ともあれ、この作品はミケランジェロ自身の手によって壊され(彫刻家がみずからの作品を破壊した例としては最初のものである)、未完成のまま残されることとなった。 ミケランジェロがその晩年に制作した彫刻3点(『パレストリーナのピエタ』を真作と認めないならば2点)はいずれもピエタを題材とするものであった。 1540年代の半ばを過ぎたころのミケランジェロは、親しい友人を次々と失ってゆく孤独感に加えて肉体の衰えも顕著になり、自身の死をも意識せざるをえなくなっていた。 約半世紀ぶりにピエタの制作へ挑んだのは、それを自分の墓所に飾るためだったのである。 頃にこの作品の制作を放棄するまで、ミケランジェロはローマのにこの像を飾り、その足下へ埋葬されることを望んでいたという証言をヴァザーリやコンディヴィがそれぞれ残している。 ミケランジェロがこの作品を途中で壊して制作を放棄するに至った原因や正確な日時についても、いくつかの食い違った証言が残っているばかりで判然としない。 大理石の質が悪くてうんざりしていたので壊したという説や、イエスの足が不慮の事故で壊れたのが先で、ミケランジェロは止めを刺しただけだという説などがあるが、いずれにせよミケランジェロはこの作品にみずからハンマーを打ち下ろし、イエスの左の手足とマリアの腕が壊された。 像の主部と腕の破片は弟子のアントニオ・ダ・ウルビーノに与えられ、その後フランチェスコ・バンディーニに売却された。 このバンディーニの依頼を受けて腕の破片を修復したのはティベリオ・カルカーニである。 カルカーニは失われた足も新たに制作して取り付けることを考えたが、台座の前部中央に穴を開けたところで断念している(足の破片はが所有していたとも伝えられる)。 そのため『フィレンツェのピエタ』はイエスの左足を欠いたままの姿で残されることとなった。 その後にのがこれを買い取り、しばらくのあいだに置かれていたが、にに移転した。 構成 この作品には4人の人物が描かれている。 十字架から降ろされたばかりのイエスの遺体(中央)、(上)、(左)、未完成のままの聖母マリア(右)である。 ミケランジェロがこの作品において心がけたのは、史実にもとづいた場面を描くことよりも「 Non vi si pensa quanto sangue costa(いかほどの血が流れたのか、知るよしもなし)」(『』「天国篇」第29歌)という自分自身に対する個人的な訓戒を形にすることだったようである。 この一節は、彼が思慕を寄せる未亡人のために書いた「ピエタ」の素描において十字架の柱に書かれていたものであり、この素描の構図こそ、晩年に制作された一連のピエタの出発点となったものだからである。 ただ、4人の人物の配置こそ引き継がれているものの、素描においては中央のイエスを囲んで上には十字架を背にして天を仰ぐ聖母マリアが、左右にはイエスの腕を取る2人の天使がいたのに対し、フィレンツェのピエタにおいてはマリアがいた位置にニコデモが、天使のいた位置に聖母とマグダラのマリアが置かれることになった点が注目に値する(による先行作品を参考にした可能性が指摘されている)。 サン・ピエトロのピエタではマリア1人がイエスの全身をしっかりと支えていたが、ここでは力なくずり落ちる遺体を3人が取り囲み、かろうじて支えているという痛ましい情景を描くことで、イエスの死が効果的に表現されている。 解釈 右に見える聖母マリアはほとんど粗彫りしかされていない状態でいかにも未完成品だが、左のマグダラのマリアはほぼ仕上がっている。 他の3人が切り分けられないままの状態であるがゆえに却って苦痛や恐怖を共有するかのような一体感をもつのに対し、1人だけ分離されたマグダラのマリアが「浮いて」しまっていることや、他の3人よりもサイズが小さすぎることなどから、マグダラのマリアだけ仕上がっているのは腕を修復したカルカーニの手が入っているためではないかとも推測されている。 頭巾の下のニコデモの顔はミケランジェロ自身をモデルにしたものだという定説は、やはりヴァザーリの証言による。 この人物をニコデモではなく、ニコデモとともにイエスの遺体を引き取りに行っただとする研究者もあるが、頭巾とマントを身につけているのが『』(3:1 - 21)における「ニコデモが夜ひそかにイエスのもとを訪ねて行った」という記述に対応させたものと考えるのが自然であるため、この見解を支持する研究者は少ない。

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