豊臣 秀吉 政策。 豊臣秀吉の経済政策で優れていた点は、どういうところでしょうか?

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豊臣 秀吉 政策

織豊政権とは? 戦国大名の織田信長が室町幕府第 15代将軍足利義昭を京都から追放し、室町幕府が滅亡した 1573年(元亀 4)から、戦国大名の豊臣秀吉が死去した 1598年(慶長 3)までを、 安土桃山時代といいます。 この時代の間は、 織田信長と豊臣秀吉が中央に権力を集めていた時代でもあるため、 2人の名前の頭文字をとって 「織豊(しょくほう)時代」もしくは 「織豊政権」とも呼ばれています。 (実際には、織豊時代(安土桃山時代)の始まりの時期と終わりの時期は説が分かれています) 織田信長について (織田信長 出典:) 尾張(現在の愛知県)に生まれた織田信長は、尾張の領主として成長し、 1560年(永禄 3)には桶狭間の戦いで駿河(現在の静岡県)の戦国大名・今川義元を討ちました。 力を強めていた織田信長は、弱っていた室町幕府に足利義昭を第 15代将軍にさせ、自分も京都で権力を振るえるようにします。 敵対勢力と戦いながらも着実に力を強めていき、天下統一まで目前というところで 1582年(天正 10)、家臣だった明智光秀の裏切り(本能寺の変)により京都の本能寺で追い詰められ、自害しました。 信長が足利義昭を将軍の地位につかせるまで、室町幕府は崩壊寸前といった状態でした。 第 13代将軍の足利義輝は、三好三人衆によって永禄の変で討たれてしまいました。 室町幕府は三好三人衆に乗っ取られてしまいましたが、この窮地に、信長が足利義昭を連れて京都に入ります。 信長は三好三人衆などを京都から追放して、足利義昭を将軍にさせ、室町幕府を立て直しました。 室町幕府を再興させた立役者である信長は、足利義昭の後見人として、政治の権力を握ります。 およそ 200年以上も続いた 室町幕府の将軍家の権威を自分の権力を強めるために利用しました。 また、朝廷に対しても、朝廷の財政を立て直したり、天皇が住んでいる内裏とよばれる住居を修復したり、天皇に対して譲位するための資金援助をしたり、朝廷への忠誠をアピールしました。 このように、信長は 伝統的な権威を利用するために様々な策略を巡らせていたのです。 信長自身、南蛮文化に対して大いに興味を持っていたり、鉄砲など兵器に対しても新しいものを取り入れたりなど、時代の先を見据える力があったと言っていいでしょう。 そのため、楽市・楽座などの政策も、それまでにはなかった新しい政策を行いました。 信長の政策は、その後の近世の時代に大きく影響を与えたと言われています。 座とは、商人たちの組合で、いわば会社のような存在です。 その町で新しく商売を始めたい人がいても、このような組合が市場を取りまとめているので、商売を始めづらいのです。 そこで信長は、この組合である座を解散させ、座の商人が市場を独占している状態から、どんな商人も自由に商売ができるようにしました。 そして、税金も安くし、城下町(自分の支配地)をどんどん活性化させるように図ったのです。 この楽市・楽座の政策は、信長は最初に始めたのではなく、近江国(現在の滋賀県)の六角定頼が先に始めていたといいます。 楽市・楽座は 1577年に実行されたので 「以後なんな( 1577)りと、楽市楽座」と覚えましょう。 関所はもともと、国に入る場所を限定させるなど、安全のために設けた場所でした。 しかし、この頃には安全のためというより、通行料をとるためだけにあったという感じで、つまりはお金儲けのために関所を設けていました。 関所がたくさんあれば、その分物流にお金がかかってしまいます。 物を運ぶだけでお金がかかるのに、さらに関所でもお金を払わなければいけないからです。 信長はこの関所を徹底して廃止しました。 お金をとられる関所を廃止すれば、他の国の商人たちは「信長の領地に行けばお金をとられずに物を売れる」と思います。 こうして、信長の領地では物流が盛んになりました。 関所の撤廃は 1568年に行われたので 「以後( 15)の小遣いは無理や( 68)で、関所はなくなったし」と覚えましょう。 信長は天下統一をするために、自分にとって障害となる勢力は、たとえ伝統的な宗教勢力でも排除していきました。 一方で、キリスト教に対しては教会を建設する許可を出すなど、キリスト教を庇護する立場にいました。 仏教の寺社勢力と対立していたということもあって、信長はキリスト教を優遇していたと長い間思われていました。 しかし、キリスト教を特別視してきたわけではないというのが、最近の一般的な考え方です。 信長は、自分に対抗する宗教勢力には激しく対立する姿勢をとりましたが、逆に、自分に対抗しない宗教に対しては、その存在を認めていました。 豊臣秀吉について (豊臣秀吉 出典:) 尾張の身分の低い農民の家で生まれた豊臣秀吉(このときは木下藤吉郎)は、織田信長に仕え、戦国武将としての才能を開花させました。 信長の重臣として戦にも出ていましたが、本能寺の変で主君・織田信長は明智光秀に討たれてしまいます。 信長亡きあと、秀吉は信長の後を継ぎ、天下統一を目指します。 そして、大阪城を築き、関白・太政大臣の位につき、朝廷から「豊臣」の姓を賜ったことで、天下統一を果たしました。 様々な政策を行い、朝鮮出兵の最中に病気で死去しました。 秀吉は惣無事令などの政策を、天皇の名前で実行したりしました。 天皇の名前をつかうことで、豊臣家に従っていない大名たちを天皇への忠誠を誓わせることで、豊臣家に従わせることができます。 朝廷の権威を利用したことで、もともと主君だった織田信長の織田家とも立場が逆転し、豊臣家が全国の大名のトップに君臨しました。 そのため、秀吉は 「武家関白制」という関白という地位を世襲制(親から子へ渡すこと)にし、幕府に代わる支配制度をつくりました。 しかし、秀吉は子供に恵まれず、親類も数少なかったといいます。 この血縁の少なさが豊臣政権の崩壊の一因とも言われています。 これを 「惣無事令」といいます。 この惣無事令は、天皇の名をつかって実行した政策でした。 そのため、この惣無事令を破った大名たちには、天皇の名の下で、秀吉が大名を処罰(討伐)できます。 天皇の名前をつかって実行したのは、こうした大義名分を得るためでした。 また、私的な領土争いを禁じることで、全国の大名たちは必然的に豊臣政権に服従しなければいけなくなりました。 惣無事令は 1586年に実行されたので 「豊臣の以後は無( 1586)敵の惣無事令」と覚えましょう。 太閤とは「前関白」のことで、秀吉のことをいい、検地とは、農民から年貢を取り立てるために、田んぼや畑の面積、収穫量を調べることをいいます。 それまではバラバラだった検地の方法(面積の計量の方法や基準)を全国で統一しました。 太閤検地を行ったことで、農民は自分の土地から離れられなくなりました。 また、太閤検地と一緒に農民から刀を没収した刀狩り令などによって、農民と武士をしっかり区別させました。 太閤検地は 1582年に実行されたので 「十五夜に( 1582)はじまる太閤検地」と覚えましょう。 当時バテレンとは「伴天連」と書き、ポルトガル語の「 padre(神父)」が由来でした。 秀吉は信長と同じように、キリスト教には寛容な態度をとっていました。 しかし、九州征伐のとき、長崎がイエズス会の領地になっていることに驚きます。 キリスト教の領土が拡大し、キリスト教徒による反乱や、ポルトガル人による奴隷貿易に日本人が巻き込まれることを防ぐために、秀吉はバテレン追放令を実行しました。 バテレン追放令は、キリスト教自体を禁止するものではありませんでした。 キリスト教を信じることをやめさせることはなかったし、ポルトガルとの貿易を取りやめることもありませんでした。 バテレン追放令は 1587年に実行されたので 「以後はな( 1587)らんとバテレン追放」と覚えましょう。

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豊臣秀吉が貿易を保護するために取った方法とは

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目次 木下藤吉郎と名乗る 豊臣秀吉と言えば、低い身分から成り上がった人物。 そうイメージする人も多いのではないでしょうか。 豊臣秀吉の出自は、低い身分だったと云われてていますが、俗説として知られている秀吉の出自は、確かな根拠はありません。 『太閤素性記』によると、尾張国愛知郡中村郷(名古屋市中村区)の足軽・木下 弥右衛門と仲( なか)の子として生まれたそうです。 生年は、天文6年(1537年)が有力です。 豊臣秀吉ほどの人物ですが、生まれた身分が低く過ぎて、出生記録がないそうでハッキリしていません。 また、父・木下弥右衛門は、農民であるとも、将軍の近くで芸能や雑務をする同朋衆(どうぼうしゅう)、織田信秀の足軽であるとも云われていますが、どの説も立証されていません。 豊臣秀吉は、始め「 木下藤吉郎」 きのした とうきちろう と名乗っていたと云われています。 父・弥右衛門は、木下藤吉郎 豊臣秀吉 が7歳の時に亡くなり、母の再婚相手・竹阿弥(ちくあみ)と合わずに、侍を目指して遠江国に行ったそうです。 木下藤吉郎 豊臣秀吉 の若い頃は、謎が多く、『太閤素性記』によると、8歳で寺に預けられ、15歳で家を出て、針売りをしたとも云われています。 松下之綱の家臣になる木下藤吉郎 遠木下藤吉郎 豊臣秀吉 は、遠江国の松下之綱(まつした ゆきつな)に仕えたと云います。 遠江国は、今川家の領土ですが、木下藤吉郎 豊臣秀吉 は、今川家から見て、今川の家臣の家臣の家臣という立場でした。 織田信長に仕える 織田信長の家臣になったのは、天文23年(1554年)頃、雑用を行う小者(こもの)として仕え、後に頭角を現していきます。 創作だと云われていますが、『絵本太閤記』によると、織田信長の草履を懐に入れて温め、信長を喜ばせたという逸話が残されています。 織田信長 木下藤吉郎 豊臣秀吉 が結婚したのは、永禄4年(1561年)で、浅野長勝の養女で杉原定利の娘・ ねね 北政所 です。 木下藤吉郎 豊臣秀吉 は、身分が低い出自であることから、ねねの母に反対されたそうです。 しかし、反対を押し切って結婚したという、当時としては珍しい 恋愛結婚であったと云われています。 木下藤吉郎 豊臣秀吉 が織田信長に重用され始めた時期は分かりませんが、永禄8年(1565年)の書状から織田家の有力家臣になっていたことが読み取れるそうです。 織田信長は出自ではなく、実力で評価することで知られています。 木下藤吉郎 豊臣秀吉 は、どのように信長の信頼を勝ち得たのでしょうか。 木下藤吉郎 豊臣秀吉 と言えば「 人たらし」、人間的な魅力もあり、天下を統一できたと云われています。 この「人たらし」たる所以は、美濃の斎藤龍興との戦いでも垣間見えます。 戦国時代は武力で平定するイメージがあるかもしれませんが、木下藤吉郎 豊臣秀吉 は、斎藤方の城を交渉や賄賂を使い開城させたと云われています。 こうして、武力ではなく話術で信長の美濃平定に貢献します。 一方、金ヶ崎の戦い(かねがさきのたたかい)で殿を務めるなど武功でも功績を残します。 信頼を得て出世した木下藤吉郎 豊臣秀吉 は、元亀3年(1572年)、木下氏から羽柴氏に名を改め、 羽柴秀吉と名乗ります。 武田勝頼や松永久秀との戦で活躍 羽柴秀吉 豊臣秀吉 は、天正元年(1573年)、 長浜城主になり、織田政権下で台頭していきます。 武田家を滅亡へ追い込む 長篠の戦いでも、秀吉は武田の騎馬軍団の精鋭たちを蹴散らし活躍し、やがて武田家は滅亡します。 武田家が滅び、強敵・上杉謙信との戦い。 上杉謙信との戦いである手取川の戦い(てどりがわのたたかい)では、柴田勝家と仲たがいし、無断で兵を撤収し敗北したことで、信長から叱責されます。 この戦は負け戦になり、羽柴秀吉 豊臣秀吉 の立場は苦しくなりますが、運も良いのでしょうか。 その後、直ぐに信貴山城の戦い(しぎさんじょうのたたかい)に従軍し、討伐に貢献し褒美まで貰いました。 松永久秀 羽柴秀吉の中国征伐 天正5年(1577年)、羽柴秀吉 豊臣秀吉 は、 毛利氏の勢力下にある 中国征伐を命じられます。 中国征伐でも、羽柴秀吉 豊臣秀吉 の非凡さを垣間見ることが出来ます。 備中高松城を攻めた時の話です。 備中高松城は、湿地を利用した 沼城、簡単に落とせる城ではありませんでした。 城攻めを難しくしているのは、沼城であるという点ですが、難点を逆手に取り 水攻めという奇策を講じます。 3kmもの堤を作って、川の水をせき止めて、城を水浸しにして孤立させます。 現地の農民に、土のう1俵運べば、米1升分の銭という、当時としてはとても高額な報酬を払います。 この破格の報酬で、農民は昼夜、土のうを運び続け、わずか12日で堤を完成させたと云います。 こうして備中高松城を、湖の中の孤島のようにすることで、食料や物資の補給路を断たち戦いを有利に進めます。 また、この中国征伐で、水攻めではないですが、三木合戦、鳥取城の戦いも兵糧攻めを行い、味方の勢力を温存することに成功しています。 ところが天正10年(1582年)、水攻め中の羽柴秀吉 豊臣秀吉 の耳に、本能寺の変の一報が耳に入ったことで、中国征伐は幕を閉じます。 羽柴秀吉、京へ急ぐ 羽柴秀吉 豊臣秀吉 は、信長が亡くなったことを隠し、毛利氏と和議を結ぶと、信長の仇を討つため、京へ急ぎます。 羽柴秀吉 豊臣秀吉 軍25000の兵は、約200 kmを約10日間で移動し、日本史上屈指の大移動は、「 中国大返し」として語り継がれています。 そのため、本能寺の変のことを事前に知っていた、つまり、本能寺の変の黒幕ではないかとさえ言われる異例の速さでした。 黒幕かは分かりませんが、速さの一因は金や銀を配ったことにあるそうです。 羽柴秀吉が織田家随一の家臣になる そして羽柴秀吉 豊臣秀吉 は、 山崎の戦いに勝利し、を自害に追い込むと、主君・信長の仇を討ったとして、信長家臣団での立場が上昇します。 信長の嫡男も明智光秀の謀反で自害しているので、織田家の後継者と領地再分配を決める 清洲会議が、織田家の重臣で行われました。 後継者候補には、信長の次男・織田信雄と三男・織田信孝の名前がありました。 ですが、羽柴秀吉 豊臣秀吉 は、亡くなった信長の嫡男の長男・ 三法師(織田秀信)を推しました。 つまり、信長の嫡孫で、当時3歳の子供です。 は反対しましたが、信長の三男・織田信孝を後見人に付けると言われ、明智光秀を討った功績に勝てなかったと云われています。 また、清州会議後に織田家家臣は二分され、羽柴秀吉 豊臣秀吉 陣営には、堀秀政、丹羽長秀、池田恒興、反秀吉陣営は、織田信孝、柴田勝家、滝川一益がいました。 対立が決定的になったのは、織田信長の四男で秀吉の養子である羽柴秀勝を喪主に、信長の 葬儀を独断で行ったためです。 京都の大徳寺にて、百カ日法要を盛大に行いましたが、織田信孝、織田信雄、柴田勝家らは参列していません。 この葬儀を羽柴秀吉 豊臣秀吉 が取り仕切ったことで、自らが信長の後継者であると宣伝したのでした。 羽柴秀吉 豊臣秀吉 は、先の清州会議で、信長の孫・三法師を織田家当主に据えましたが、それを反故にし、三法師が成人するまで 織田信雄を暫定的に当主に擁立しました。 賤ヶ岳の戦いに勝利し天下人に近づく こうして、織田信雄を羽柴秀吉 豊臣秀吉 陣営に引き込み、織田家家臣のリーダー的存在だった 柴田勝家と、 賤ヶ岳の戦いが起きます。 羽賤ヶ岳の戦いは織田家家臣を二分する戦いで、柴秀吉 豊臣秀吉 軍は5万、反秀吉軍 柴田軍 は3万の軍勢で激突しました。 賤ヶ岳 天正10年(1582年)12月、羽柴秀吉 豊臣秀吉 は大軍を率いて、長浜城、岐阜城を攻略します。 翌年の1月、反秀吉陣営の滝川一益が反撃の動きを見せると、秀吉軍が進撃を再開します。 越前の柴田勝家は、雪に行く手を阻まれていましたが、雪解けを待たずに3月に出陣し、近江の賤ヶ岳付近で秀吉軍と対峙します。 両軍膠着状態でしたが、別動隊の滝川一益、織田信孝に羽柴秀吉 豊臣秀吉 が翻弄され、反秀吉軍陣営が有利に思えました。 しかし、柴田勝家軍は、目立った動きを見せず、その上、反秀吉陣営の 前田利家軍が突然、戦線離脱したことで士気が下がり、羽柴秀吉 豊臣秀吉 が勝利しました。 この勝利で、羽柴秀吉 豊臣秀吉 は、家臣第一の地位を得て実権を握りました。 こうして、 天下人の足掛かりをつかむことになりました。 徳川家康との唯一の戦 天正11年(1583年)、黒田孝高を総奉行として、難攻不落の城と称えられた 大坂城を築城。 大坂城のまわりに城下町も作られ、大坂は日本の中心として賑わいます。 大坂城 羽柴秀吉 豊臣秀吉 と織田信雄が対立するようになると、信雄に 徳川家康が加担し、天正12年(1584年)、 小牧・長久手の戦いが起きます。 池田恒興が羽柴軍に寝返り、犬山城 愛知県犬山市 を奪取されたことを受けて、徳川家康軍は、対抗するため小牧山城 愛知県小牧市 を占拠して本陣を置きます。 一方の羽柴秀吉 豊臣秀吉 軍は、楽田砦 がくでんとりで 愛知県犬山市 に陣を構えて、両軍にらみ合います。 羽柴秀吉 豊臣秀吉 軍は、膠着状態を打破するため、徳川家康の拠点・三河に向けて出発。 徳川家康軍、織田信雄軍は、羽柴秀吉 豊臣秀吉 軍を追撃し、尾張国長久手 愛知県長久手町 にて撃破。 その後、一進一退の攻防が続いたものの、羽柴秀吉 豊臣秀吉 軍は織田信雄の拠点・伊勢への攻勢を強めます。 伊勢を侵略され追い詰められた織田信雄は、徳川家康に断りなくで 単独で和議を結びます。 羽柴秀吉 豊臣秀吉 と戦する 大義名分を失った徳川家康は撤兵し、約8か月に及んだ戦いは引き分けで終わります。 この時、徳川家康の次男・結城秀康を人質として預かることになりました。 関白になり豊臣姓を賜る ただ、その後も徳川家康は、羽柴秀吉 豊臣秀吉 に主従しませんでした。 ですが、天正13年 1585年 、羽柴秀吉 豊臣秀吉 は、の猶子になり藤原姓を得て、 関白宣下を受けます。 豊臣秀吉 関白は、実質上の公家の最高位で、天皇の代わりに政治を行う役職です。 そして、天正14年(1586年)、羽柴秀吉 豊臣秀吉 の異父妹・ 朝日姫を徳川家康に輿入れさせ、母・ 大政所を家康の元へ人質として送ります。 徳川家康は、ついに羽柴秀吉 豊臣秀吉 に 主従することになりました。 また天正14年 1586年 に、天皇から 豊臣姓を賜り、朝廷の最高官職である太政大臣 だいじょうだいじん になり、朝廷を思うままに動かす権力を手にします。 この頃の朝廷は、財政的に苦しい立場にありましたが、豊臣秀吉は財政面を支援し、一方の秀吉は天皇の権威を後ろ盾にしました。 豊臣秀吉は、佐渡金山、石見銀山、生野銀山(いくのぎんざん)を直轄地にしていたため、金、銀が採掘でき、財源がありました。 戦で徳川家康を倒すことが出来なかった羽柴秀吉 豊臣秀吉 は、武士の棟梁・征夷大将軍ではなく、公家の最高位の立場になり、天下統一を目指したのです。 四国、越中、九州の平定 それでも、羽柴秀吉 豊臣秀吉 に主従していない勢力が残っています。 その一つ、紀伊の鈴木重意を亡き者にし、紀伊を平定します。 羽柴秀吉 豊臣秀吉 に抵抗していた長宗我部元親 四国 、佐々成政 越中 、島津義久兄弟 九州 なども従わせ平定します。 また、羽柴秀吉 豊臣秀吉 は、九州征伐の後に、キリスト教を禁止するバテレン追放令を出しています。 九州でのキリスト教の広がりを見て、脅威を感じたとも、ポルトガル人が日本人奴隷を売買したためとも云われています。 小田原征伐で天下統一の総仕上げ そして、豊臣秀吉の天下統一の総仕上げは 小田原征伐。 小田原征伐の始まりは、小田原の北条氏 後北条氏 が、真田昌幸方の城を奪い取ったことで、豊臣秀吉軍が大軍を率いて小田原城を包囲したことです。 豊臣秀吉が、天皇の権威を後ろ盾にして、大名間の私戦を禁じた惣無事令(そうぶじれい)。 これに違反したという理由で、豊臣秀吉に主従していない 北条氏を征伐する戦が起きました。 北条氏の実権を握っていた北条氏政は、小田原城での籠城戦を決め、支城の守りを固めます。 ですが、豊臣軍総勢20万の大軍に支城は攻略され、小田原城も3カ月の籠城戦を経て開城され豊臣軍の勝利になりました。 この小田原征伐に 伊達政宗も参陣し、奥州仕置を経て、豊臣秀吉は天下統一を果たしました。 秀吉、太閤になる しかし、天正19年(1591年)、豊臣政権の影の立役者で秀吉の異父弟・ 豊臣秀長と、子供が出来にくかった秀吉がやっと授かった嫡男・ 鶴松が病気で亡くなります。 鶴松 嫡男が亡くなったことで、甥・ 豊臣秀次を養子にし、 関白職を譲ります。 これにより、豊臣秀吉は、前関白という尊称・ 太閤と呼ばれるようになりますが、実権は握ったままでした。 秀吉の政策・太閤検地、刀狩令、身分統制令 ここで、豊臣秀吉が行った政策を見てみます。 《 太閤検地》 当時、複雑だった荘園を太閤検地によって、その田畑の生産高を調べ、その田畑の耕作者を決めて、年貢の負担を求めています。 土地の生産高を石高で現し、石高を基準に軍役の負担を求めました。 「加賀100万石」など数字が石高を現し、高い方が大名の財力、兵力があります。 これは、江戸時代にもつながる画期的な政策だったそうです。 《 刀刈令》 当時は通常は農民で、戦の時は兵士になる半農半兵も多く居たそうです。 また、当時の百姓にとって、防衛のために刀は必需品。 ですが豊臣秀吉は、刀狩令を出し、百姓から武器を取り上げようとします。 そこで、豊臣秀吉は、大仏建立のため、鉄が要るという口実をつくり、農民から武器を徴収しました。 当時は、奈良の大仏が焼失していましたので、農民達は、新しい大仏のために刀を差し出しました。 そして、刀は、京都に建立された大仏殿にリサイクルされたそうです。 《 身分統制令》 その後、豊臣秀吉は、身分統制令を出し、侍など武家奉公人が百姓になること、百姓が商人などになることが禁止されました。 農民から天下人なったと云われる豊臣秀吉ですが、武士と百姓の身分を区別しました。 豊臣秀吉は、百姓は米を作ってくれれば武士が守るので、防衛用の刀は不要であるとしますが、これは一揆を防ぐためだったと云われています。 一揆は、政権の不安定にさせ、国力を削ぎます。 その上、武士は農民の年貢があるので、安定した収入を得て、戦いに専念できるということになります。 このように、武家政権の礎を築いた豊臣秀吉ですが、豊臣政権の没落を早める出来事が起きます。 豊臣政権の没落 豊臣秀吉が、明 中国 の征服と朝鮮の服属を目指して、 朝鮮に出兵した戦争が起きます。 朝鮮侵略の理由は、日本を統一した領地を増やすため海外に目を向けたとも、東アジアの海洋国家を作ろうとしたのではないかとも云われています。 朝鮮出兵は、元々、豊臣政権下でも交戦派と反対派が居ました。 この戦は日本と朝鮮に多大な損害を出したまま、豊臣秀吉が 病気で没したため、引き分けで終戦になりました。 朝鮮出兵に従軍した大名は疲弊し、第一線で戦った大名と、奉行として指揮した大名とで対立が起きます。 この豊臣家臣団の分裂は、関ヶ原の戦いにつながり、後に豊臣家は滅んでしまいました。 豊臣秀吉が亡くなっても、豊臣家の人間が多ければ、 豊臣秀次が生きていたならば、また違った歴史になっていたかもしれないと思います。 先に述べましたが、豊臣秀次は、豊臣秀吉の甥で関白を譲られた人物です。 豊臣秀次 ですが、甥を後継者にした後で、豊臣秀吉は再び男児・ 豊臣秀頼を授かります。 その後、理由は諸説あるものの、豊臣秀次を自害に追い込みます。 その際に、豊臣秀次の子供達、幼い姫までも亡き者にされました。 ただでさえ少ない豊臣一族なのに、秀吉は自らの命令で豊臣家の人間を滅ぼしてしまいました。 また、豊臣秀次の側室、侍女、乳母、家老まで連座し、亡くなります。 側室には、前大納言・菊亭晴季の娘、最上義光の娘・駒姫も含まれていました。 駒姫は東国一の美少女と名高かったことから、豊臣秀次に何度も側室に要求され、ついに折れて側室に出すことになり、山形城から秀次のいる京へ到着したばかりでした。 そんな折、豊臣秀次が自害に追い込まれ、何の罪もない駒姫も亡き者にされました。 連座者として、豊臣秀吉の古参家臣・前野長康も自害を命じられています。 この惨劇により、関ヶ原の戦いの時に、徳川家康方についた大名がいたとも云われています。 いずれにしても、豊臣秀吉が亡くなった時、後継ぎの豊臣秀頼は5歳、豊臣家を守ることは出来ませんでした。

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豊臣秀吉が行ったこと(刀狩・太閤検地)と後の影響とは!?

豊臣 秀吉 政策

豊臣秀吉 とよとみひでよし。 旧織田家の筆頭家老・柴田勝家 しばたかついえ を倒し、織田家筆頭家老に就任後、 小牧 こまき ・長久手 ながくて の戦いで、 織田信雄 おだのぶかつ ・徳川家康連合軍に対して、 有利な和睦条約を突きつけて勝利を収めることになり、 天下人としての大きな一歩を踏み出すことになります。 また公家衆の関白職の争いを収める為自らがこの問題に介入して関白職に就任。 こうして名実ともに天下人になった豊臣秀吉。 彼は天皇の名の元に天下の諸大名へ「総無事令 そうぶじれい= 大名間の争いをやめさせる目的の政策 」を発令することになります。 こうして着々と天下を静謐にすることを目的とした統一事業を推進。 今回は彼の天下を静謐することを目的とした事業として、 歴史の教科書にも記載されている「刀狩り」についてご紹介していきたいと思います。 センゴクを100倍楽しむ全記事一覧は 関連記事: 刀狩りの本当の目的とは 秀吉が発令した真の刀狩りの目的。 それは一揆の防止でした。 百姓達の武装勢力として戦国時代で勢いを持っており有名な団体といえば、 根来衆 ねごろしゅう や雑賀衆 さいかしゅう 達と言えるでしょう。 彼らは武士ではなく鉄砲の操縦技術を有した百姓達である反面、 他国の大名に雇われて戦に参加。 戦に参加することで高額な報奨金を得ていた傭兵団のような存在でもありました。 秀吉は紀州を拠点として活動していた根来衆・雑賀衆達を討伐するべく、 紀州征伐を行います。 この戦いは秀吉軍の圧倒的な兵力の前に傭兵団である根来衆・雑賀衆が、 秀吉と和睦することで決着がつくことになるのです。 秀吉は彼らと和睦を結んだ時に刀狩り令の原型を条件に組み込んでおります。 その内容は自らに抵抗してきた百姓達の命を許す代わりに、 鉄砲・刀・槍等を放棄して百姓らしく田畑を耕して生きていくことが条件でした。 この条件を飲んで根来衆・雑賀衆は和睦に応じるのです。 このように戦国時代では上記のように 根来衆・雑賀衆は傭兵団みたいな存在でしたが、 村々に武器を有しており、 領主や大名に対して不満があれば一致団結して反乱を起こしておりました。 秀吉は百姓達から武器を取り上げることによって彼らが農業に専従することを促し、 年貢を大名や領主達へしっかりとおさめることで、 年貢収入を経済の基盤とする目的としておりました。 刀狩りにはもうひとつの意味があるのではないのか「レンの私見」 もう一つ刀狩りには大きな目的があったとレンは考えます。 それは農業専従者である百姓と 戦闘のプロフェッショナルである武士との区別をしっかりと行うための兵農分離が、 目的ではないのでしょうか。 上記でもご紹介しましたが百姓達の武装反乱が各地で起きていた戦国時代ですが、 武士も反乱を起こしていることがしばしばありました。 しかし百姓達が主導で反乱を起こしたのか。 それとも武家が主導で主君に対して反乱を起こしたのか、 明確な区別がなかなか付けることができずにおりました。 明確な判断ができないとなれば、誰を罰すればいいのかわかりません。 そのため秀吉はこれら反乱を起こす者達の区別をはっきりとするため、 刀狩りを行い武器を百姓達から取り上げることで、 反乱を起こした武家と百姓達をしっかりと区別する意味合いもあったのではないのでしょうか。 これら二つが刀狩りの真の目的でした。 刀狩りの様子とは 刀狩りは上記のような真の目的と建前上の二段構えの目的を持って、 発令されることになります。 では百姓達はこの命令に素直に頷いて武器を差し出したのでしょうか。 今回は刀狩りの様子を伺ってみましょう。 宣教師であるルイス・フロイスが示した「日本史」という書物には、 刀狩りが行われた九州の大名である有馬 ありま 家の様子が記されております。 「日本史」によると刀狩りを行う役人は村々に対して 「おーい。 刀・槍・弓・鉄砲など武器を持っている家はちゃんと差し出せよ。 もし差し出さなかったら家宅捜索するからな。 」とちょっと緩めですが、 しっかりとプレッシャーもかけて命令を布令しております。 こうして役人の前に色々な武器達が勢ぞろいしていくことになりますが、 もし差し出すことに協力しなかった百姓にはガチで家宅捜索が行われることになります。 役人達は差し出さなかった百姓の家に出向いて家宅捜索を行い、 武器を見つけると没収していったそうです。 有馬家ではこの刀狩りを行った結果、1万6千の武器が回収されたそうです。 かなりの武器を百姓達が有していたことになりますね。 また全国各地で行われたこの政策によって没収された武器は数十万になったそうです。 ではこの没収した武器は一体どこに消えていったのでしょうか。 刀狩りによって没収された武器達の行方は?? さて秀吉の政策によって百姓の村々から没収された武器達。 これらの武器は一体どこに消えていくのでしょうか。 一部は秀吉が刀狩りの建前となっていた方広寺建立に消化されていったと考えられます。 方広寺に大きな大仏を建立するため、かなりの量の鉄が必要であったことは間違えなく、 百姓達から回収した武器を溶かして使用していたと思われます。 戦国史ライター黒田レンの独り言 さて秀吉が行った刀狩りによって集められた武器達は一体どこに行ったのでしょうか。 レンは日本全国の百姓達からかき集めた武器全てを大仏建立に使用したのかという点に 疑問を持っております。 それはなぜか。 何十万もの武器を方広寺の大仏建立や方広寺の釘に使用するなんて、 豪華好きの秀吉にしてはいかにもケチではありませんか。 大阪城築城の時や聚楽第を建築した時にはあんなに金をぶち込んだにも関わらずです。 そこでレンが考えた回収した武器の使い道として、 次の戦のために使用するであろう鉄砲の弾に使ったのではないのでしょうか。 秀吉は天下統一事業が完成すると朝鮮半島に向かって兵を送り込んでいきます。 この時に秀吉は刀狩りで回収した武器の中で、 あんまり価値のないものや釘として使えない武器達を集めて、 鉄砲の弾薬として使用したのではないのでしょうか。 かなり突飛な話ですが、 朝鮮半島を従属させていた中国の明とやり合うにはそれなりの軍勢と武器・弾薬が、 準備されてなくては勝てないと思うからです。 ちょっとずれているかもしれませんが、筋が通っていないわけではないと思います。 皆さんは刀狩りで回収された武器達が一体どこに消えてしまったのか。 どのようにお考えになられますか。 参考文献 新星出版社 豊臣秀吉 榎本秋著など はじめての三国志: 関連記事: 関連記事: —古代中国の暮らしぶりがよくわかる—.

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