江戸 時代 西暦。 江戸時代の年号一覧と主な出来事

江戸時代の年表

江戸 時代 西暦

この記事の内容の信頼性について。 確認のための文献やをご存じの方はご提示ください。 、記事の信頼性を高めるためにご協力をお願いします。 議論はを参照してください。 ( 2015年12月) 西暦(せいれき)とは、で(救世主)と見なされるが生まれたとされる年を元年()としたである。 表記は各国で異なるが、や圏では、の「 A. 」又は「 AD」が使われる。 またADとは「」の略であり、「主(イエス・キリスト)の年に」という意味。 西暦紀元、 キリスト紀元ともいう。 西暦には通常はは存在しないが、やにおいては、西暦0年及び負の西暦年を設定する(後述の)。 なお 西暦元年とイエスの実際の生年には、ずれがある(後述の)。 今年は である。 のキリスト教(、および後の)地域から徐々に普及し(後述)、西欧諸国が世界各地で進めた活動などによって伝わった結果、現在において世界で最も広く使われている紀年法となっている。 しかし、以降においては、非キリスト教徒との関係から、ADを Common Era(略: CE、「 共通紀元」の意)へ、同時に(BC)をBefore Common Era(BCE)に切り替える動きが広まっている(詳細は)。 歴史 [ ] 誕生 [ ] 西暦はの のによって算出された。 、ディオニュシウスはの委託を受けてのであるの暦表(復活祭暦表)を改訂する際に、当時ローマで用いられていた(のを紀元とする)に替えて、イエス・キリストの(生誕年)の翌年を元年とする新たな紀元を提案した。 これはディオクレティアヌスがキリスト教の迫害者であり、その迫害者の名を残す事が疎まれたからである。 の記述によると、イエスがした日はのの祭り(の頃の最初の満月の日)の前日から三日目の()であり、伝承では「でニサンの月の14日」(の)とされていた。 ディオニュシウスはイエスの生誕年を求めるにあたり、ディオクレティアヌス紀元279年が、伝えられるイエスの復活した日の状況と合致することを発見した。 そこで、ここから過越の祭りと同日であるの日付が532年で一巡するという当時の知識に基づき、一巡に要する532年にその時のイエスの年齢が「満30歳であった」とする当時の聖書研究者の見解を根拠として、31年を加えた。 これにより「ディオクレティアヌス紀元279年=キリスト紀元563年」の等式が成り立ち、この年号を出発点として他の年号が求められた。 ディオニシウスはこの年号を「主の体現より ab incarnatione Domini 」と表した。 また、紀元の始点を(イエス生誕と一般的に考えられているの12月25日ではなく)1月1日までさかのぼらせた。 受容 [ ] 西暦からまでは概念上の存在であり、同時代にとして使用されたことはない。 その後も長らくこの紀年法は受け入れられず、にが『イングランド教会史(イギリス教会史)』をキリスト紀元で著してから徐々に普及し、頃にようやく一部の国で使われ始め、西欧で一般化したのは以降のことであるという。 西暦が国際社会でもっとも用いられる年号となったのは、キリスト教圏であるヨーロッパ各国の世界進出や拡大により非キリスト教国でも西暦が普及したからである。 正教圏 [ ] などの諸国では10世紀以降、(『』の『』にあるが基準。 西暦5508年を元年とする)が使用されていた。 現在も正教会の幾つかの教会で使用されている。 西暦がキリスト教圏すべてで用いられた訳ではないので、注意が必要である。 また紀年法が異なるのみならず、正教圏では初頭に至るまで西欧とは異なり、ではなくユリウス暦が用いられていた。 現在でも、、、などがユリウス暦を使用している。 他方、、などはと呼ばれる、月日にグレゴリオ暦と同様の修正を施したユリウス暦を使用している。 西暦元年とイエス生年のずれ [ ] ディオニュシウスの求めた紀元は、今日推定されるイエスの生年から4年ほどずれていると考えられている。 現在では、イエスはの治世の末期、頃に生まれたと考えられている。 これは、の2つの記述• 「大規模な人口調査が行われた年にイエスがで誕生した」という記述が第2章にあり、人口調査は紀元前4年に行われたとされている。 「救世主イエス誕生の話を耳にしたヘロデ大王が、新たな王の存在を恐れ二歳以下の幼児を虐殺させたためにイエスと両親がエジプトに避難した」という記述が第2章にある。 が根拠となっている。 これらの記述自体に歴史的な裏づけはないが、ヘロデ大王在位中にイエスが誕生したことは明らかであり、ヘロデ大王の死は当時の文書などにより紀元前4年という説が有力視されているため、イエスは少なくとも紀元前4年には誕生していたと考えられている( 「」も参照)。 紀元前 [ ] 詳細は「」を参照 西暦1年以前を表現する場合、西暦1年の前年をではなくとし、過去に遡る度に年数を増やす「西暦紀元前」を使う。 これはフランスの神学者ドニ・プトによる案で、末になってようやく一般化した。 又は BCである。 0と負の西暦 [ ] 西暦1年より前の年数を表すには「」を用いるので、通常は0年やを持つ西暦年は存在しない(0世紀も存在しない)。 しかしでは西暦の概念を上の0及び負数へ拡張して用いる。 これは()と呼ばれる。 この場合、西暦1年は、「1年」、紀元前1年は「0年」、紀元前2年は「-1年」・・・と表記される。 例えば紀元前44年(が暗殺された年)は、西暦-43年である。 詳細は、を参照。 この拡張された西暦は、日付と時刻の表記を規定する国際規格であるでも採用されている。 においては、年の表記は 0001 が西暦1年を表し、0000 は紀元前1年、-0001 は紀元前2年である。 表記 [ ] では西暦年での表記が増えており、「2020年」、あるいは下2桁のみで「20年」と表記する事が多い。 と区別する為には、「西暦2020年」と、「西暦」を年の前に付ける。 キリスト教由来の紀年法として明示する場合は「キリスト紀元」と表記する。 「紀元」と紀年法を明示せずに表記する場合、現在ではキリスト紀元(西暦)を指しているが、では(皇紀)を指していた。 では、2020または20と書くのが普通だが、まれに西暦である事を明示するためには、"AD 2020" と書く。 紀元前ならば "123 BC" と書く。 英語のADは、の Anno Domini(〈イエス・キリスト〉の年に)に由来するが、他の多くのヨーロッパ諸語ではラテン語表現を使わない。 中立的な表現 [ ] キリスト教に基づく表現である Anno Domini(AD)、 Before Christ(BC)を、より中立的に、たとえば英語では (共通紀元)、 Before Common Era(共通紀元前)とする動きが起きている。 もともと18世紀ごろからユダヤ教徒の間で、Common EraやVE Vulgar Era を使う動きがあった。 背景には、から初期にかけて、西洋のシステムがになって行く中で、非キリスト教圏にも西暦が浸透して行き、特に欧米の非キリスト教徒には強い抵抗感があったことがある。 2002年に、イングランドとウェールズの公立学校が、CE、BCE を導入した。 2007年度版 World Almanac(世界年鑑)なども追随し、出版業界でも切り替えの動きが広がっている。 また、アメリカの大学入試テスト等を運営する非営利団体のなども導入している。 たとえば、 Standard では ceと bceを使っている。 西暦と各国の紀年法の関係 [ ] 日本 [ ] 日本には、にの宣教師によって西暦がもたらされた。 しかし、になってが出されると、西暦はキリスト教と結びついた紀年法であったため、使用が禁じられた。 実際、における、ののへの移転は、西暦が使われたことを、が問題視したために実行された。 再び西暦が使われるようになったのは、西洋に合わせる形で1872年(5年)に()から()への移行が決まってから( の詳細については「」を参照)のことであり、日常生活に普及し始めたのはのことである。 の規定・の観点から、日本の政府機関や地方公共団体などが作成する(など)における年の表記は、基本的にのみが用いられて、西暦の使用を事実上禁止している。 気象測器検定規則(平成14年3月26日国土交通省令第25号) に定められた気象機器の検定証印の年表示(第13条)や、乳及び乳製品の成分規格等に関する省令(昭和26年12月27日厚生省令第52号)に定められた食品の賞味期限表示、の名義人の生年、やの有効期限のように、(ごく一部の例外として)西暦を使用する法令も存在する。 または、西暦主体の表記となっている。 西暦年自体を公的に定義している例として、情報における日時データ形式を規定する JIS X 0301 においては、国際規格 に準じて、西暦年をの調印年を「1875年」として、この起点から年の値を増減両方向に定義する紀年法として定めている。 今日の日常生活では、「(12年)」のように元号と併記する場合がある。 主要な(・など)の多くは、主に西暦を使用しており、やなど、元号で記される公文書を示す場合は、西暦に換算するか西暦を併記している( その他日本国内における元号との使い分け事例等については「」を参照)。 西暦と同様の紀年法として、日本には(皇紀、神武紀元)が存在する。 明治期から太平洋戦争終了までは元号と共に皇紀も用いられた。 現在でも有効であるの置き方に関する(、明治31年5月11日勅令第90号)で神武天皇即位紀元が使われているが、戦後は用いられていない。 西暦に対して、元号を用いた日本独自の紀年法のことを 、あるいは 邦暦と呼ぶことがある。 中国 [ ] では、勃発()の翌年に当たるに元号を廃止し、中華民国が樹立された1912年を元年とする(中華民国暦)を採用した。 中華民国ではの次の元号のように「」という表記で扱われている。 中華民国がに逃れた10月以降も、政府機関が公的な場で使用している紀年法であり、民間では西暦と共に使用されている。 1949年10月1日に成立したでは、民国紀元も廃止され、政府機関も民間も西暦(公元)に統一されている。 歴史に関する話題で元号を使用(あるいは併用)していても、1912年以降は元号が廃止されているので、西暦のみを使用する(中華民国時代についても民国紀元を使わない)。 朝鮮半島 [ ] 朝鮮半島で南北に存在する(韓国)と(北朝鮮)では、同一のを主体とする2つの国家が独自の紀年法を西暦と併用して維持している。 韓国ではにおける最初の王朝、の初代王であるの即位年とされるを紀元とした が提唱され、建国直後の西暦(檀君紀元4281年)から(同4294年)までは公文書に記載されていたが 、1月1日からは廃止された。 ただし、その後も檀君紀元は民間の中で使用が続けられている。 北朝鮮では西暦1948年の建国から西暦のみが使われてきたが、1997年9月9日からの使用が告知され、公式行事や同国の報道機関 で使用されるようになった。 これは同国の初代かつ唯一のであるの生誕年である西暦を紀元としたもので 、結果として民国紀元(中華民国暦)と同年となる。 東南アジア・南アジア地域 [ ] 東南アジア・南アジア地域のうち、、特にの信徒が多数を占めている・・・・などでは、仏教の開祖であるの(死去)した年を基準とする(仏暦)が普及している。 なお、ミャンマーとスリランカでは釈迦の入滅年とされるを紀元元年、タイ・カンボジア・ラオスではその翌年であるを紀元元年とし、1年のずれが生じている。 特にが仏教を厚く保護するタイ王国ではこの仏暦が公式文書で使われている。 この場合、タイ語では仏滅紀元、西暦が普及している国で広く使われる英語や日本語では西暦で表記される例がある。 日本語の過去の用法 [ ] この方式のの日本での呼び名は、今日では「西暦」と呼ばれる事が圧倒的に多いが、 キリスト紀元( 基督紀元)や 西洋紀元ともいい、また西洋紀元を略して 西紀(せいき)とも呼ばれる。 『西洋聞見録 後編』(1871年)では、「西暦」は西洋の である(あるいは)を指している。 脚注 [ ] []• J・D・ブルゴワン『暦の歴史』池上俊一(監修)、南條郁子(訳)、創元社〈「知の再発見」双書〉、2001年5月20日、66頁。 当時のローマは東ローマ帝国の承認を受けたのによる支配下にあり、ローマ教皇は管轄地域である西方地域での影響力を持っていた。 たとえば()を参照。 2002年2月9日. の2011年12月20日時点におけるアーカイブ。 2012年2月5日閲覧。 歴史テストのページ• e-Gov法令検索. 総務省行政管理局. 2015年2月14日閲覧。 邦暦の使用例• 檀君紀元と西暦では新年のずれは生じない。 西暦2020年は檀君紀元4353年となる。 なお、同年8月15日の建国直後には(上海亡命政府)が成立したを紀元とする「」が使われたが、1か月で使用が停止された。 韓国の初代大統領は1919年の臨時政府でも大統領を務めたで、彼は強いナショナリズム政策を取っていたが、李の失脚後に1961年ので政権を奪取したは強権による近代化路線への変更を準備していた。 韓国の歴史教育では檀君自体は実在するとされている。 一例として、北朝鮮の国営通信社であるの公式サイトでは、朝鮮語と英語の双方で主体暦と西暦の併記が行なわれている。 金日成は主体暦導入3年前の1994年に死去していた。 この主体暦導入決定は彼の長男で、北朝鮮の2代目最高指導者となったにより実施された。 西暦2020年は主体(チュチェ)109年。 たとえば、西暦2017年(仏暦2560年)に日本で開催される「第18回タイ・フェスティバル2017」では、タイ語の案内では仏暦、日本語の案内では西暦の紀年法が採用されている。 出典:、「」、2017年5月1日閲覧。 例えば、西暦2020年は仏滅紀元2563年。 参考文献 [ ]• 岡崎 勝世『聖書vs. 世界史 キリスト教的歴史観とは何か』講談社〈講談社現代新書〉、1996年、Kindle版。 関連項目 [ ] に関連の辞書項目があります。

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「幕末」とは西暦何年から何年まで?幕末の状況を簡単に説明

江戸 時代 西暦

歴史学者の定説でどうなっているかわかりませんが、江戸時代を初期(前期)、中期、後期の3期に分けることを考えます。 あと、面倒なので幕末は後期に含まれると考えてみます。 【1】まず、江戸時代が1603年幕府成立から1867年大政奉還までの264年間と考えてみます。 3で割ると88年ごとになります。 初期;1603年~1691年 中期;1692年~1779年 後期;1780年~1867年(大政奉還) (幕末;1853年~) 1691年は5代将軍綱吉の時代で、前年1690年に隠居した水戸光圀が西山荘で生活開始。 1779年は平賀源内の没年(陽暦で1780年)で、10代家治の時代です。 この場合、「忠臣蔵」の逸話(1701~1703年)は中期になります。 1853年は最初の黒船の年、翌1854年に日米和親条約です。 江戸時代の長さは265年になります。 初期;1603年(初代家康が将軍に)~1709年(5代綱吉没) 中期;1709年(6代家宣が将軍に)~1786年(10代家治没) 後期;1787年(11代家斉が将軍に)~1868年(15代慶喜が水戸へ) この場合、「忠臣蔵」の話は初期に含まれます。 【3】次は少々強引ですが、江戸時代を前後それぞれ3年(合計6年)長くして、1600年から1870年までの270年を3等分してみます。 すると1期当り90年になります。 初期;1600年~1690年(1600年関ヶ原、1603年幕府成立) 中期;1691年~1780年 後期;1781年~1870年(1869年明治天皇江戸へ、1871年廃藩置県) あとで述べますが江戸時代の始まりを1600年、終了を1869年または1871年とする説もあるようです。 この場合、享保の改革は中期、寛政と天保の改革は後期です。 【4】今度はまた単純に西暦上2桁の100年ごとの区分で考えてみます。 その1 江戸時代の1600年代;1603年~1699年(5代綱吉の時代) 江戸時代の1700年代;1700年~1799年(11代家斉の時代) 江戸時代の1800年代;1800年~1868年 その2 江戸時代の17世紀;1603年~1700年(光圀没、綱吉の時代) 江戸時代の18世紀;1701年~1800年(家斉の時代) 江戸時代の19世紀;1801年~1868年 この場合、享保と寛政の改革が中期、天保の改革が後期になります。 また、西暦上2桁で分けると前期がほぼ97年、中期がほぼ100年、後期が67年くらいで、間隔が一定しません。 Yahoo! 辞書の「江戸時代」では始まりを慶長8年(1603年)のほか慶長5年(1600年)の説も紹介。 江戸時代のスタート(1603年)の前後の元号では慶長が1596年から、元和が1615年からです。 また狭義の「初期」として幕藩、鎖国体制の基礎が築かれたと思われる家康、秀忠、家光の3代(家光の没年1651年まで)を想定してもいいでしょう。 大河ドラマでも「葵徳川三代」がありました。 ところで、もし「中期」を設けず、江戸時代の264年間を「前期132年」と「後期132年」の2期だけに分けるなら、江戸時代の折り返し点は西暦1735年、吉宗の享保の改革の最中になります。 幕末は最初の黒船が来た1853年からとするのが普通ですが、Yahoo! 辞書では翌年1854年の日米和親条約締結からという説を紹介しています。 元号では1854年から安政なので、このほうが区切りがいいかも知れません。 江戸時代の最終年は1867年(慶応3年)という見方と、1868年(慶応4年)の明治改元前とする見方のいずれも可能でしょう。 Wikipediaでは江戸時代の終わりを1868年としながら、幕末の終わりを1869年(明治2年)としたり、1871年(明治4年)としたりしています。 ここもご覧ください。 辞書で「幕末」はまず「大辞林」で「1853年から」説。 1853年は嘉永6年です。 「大辞泉」は「幕末」を安政元年(1854年)から慶応3年(1867年)としていますが、異論として「またはそれに至る30~40年間をいう」という説も紹介しています。 「またはそれに至る30~40年間」とは何でしょうか。 黒船から明治維新まで15年なのに、30年、40年も前から「幕末」とする意見もあるようです。 「大政奉還までの30年」は1837年から1867年まで。 1837年は大塩平八郎の乱の年で、11代家斉が12代家慶に将軍職を譲った年。 すると、蛮社の獄(1839年)、天保の改革(1841~1843年)も「幕末」に入ってしまいます。 また、「大政奉還までの40年」となると1827年から「幕末」になってしまいます。 1827年には西郷隆盛が生まれており(暦によっては翌年)、1828年から翌年までシーボルト事件。 文政年間の末期です。 当然、11代家斉の時代。 要するに「幕末」は「江戸時代後期」と同義で使われることもあるようです。 遠山金四郎が北町奉行だった1840~1843年は「天保時代から幕末」説では幕末の話になります。 1840~1842年のアヘン戦争もほぼ同時代です。 一方、「第2次アヘン戦争」とされるアロー戦争(Arrow War)は1857年から1860年まで。 日本ではこの時期、安政の大獄(1858~1859年)と桜田門外の変(1860年)があり、幕末を「黒船以降」とする説でも、「第2次」のアヘン戦争であれば完全に幕末です。 1851~1864年は清国で太平天国の乱。 日本では黒船の2年前からですがほぼ幕末。 1861~1865年にはアメリカで南北戦争がありました。 これは完全に幕末。 ドラマ『JIN-仁-』で主人公が幕末にタイムスリップしましたが、行き先は1862年の日本、1867年の龍馬暗殺まで行くようですね。 この江戸時代の年代区分については、様々な意見もあるようですが、手持ちの書籍から 江戸時代前期~中期 慶長8年(1603)から明和年間(1764~72年) 江戸時代後期 安永年間(1772~81年)から嘉永年間(1848~54年) 幕末 安政年間(1854~60年)~慶応4年(1868) またさらに細かく区分すると 江戸時代初期 慶長8年(1603)~慶安4年(1651) 江戸時代前期 承応元年(1652)~寛文12年(1672) 江戸時代中期 延宝元年(1673)~天明8年(1788) 江戸時代後期 寛政元年(1789)~天保13年(1843) 幕末 弘化元年(1844)~慶応4年(1868) これらは一応の目安として下さい。 また幕末の期間に関する厳密な定義はありませんが、ペリー来航の嘉永6年(1853)から戊辰戦争終結の明治2年(1869)を指すともされているようです。

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江戸時代の年代区分について

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江戸の元号 明和九(めいわく)年で改元!? 明和9年(1772)は江戸の三大火事のひとつの目黒行人坂火事(死者一万八千七百人)とやっと仮住まいを始めた秋に暴風雨に見舞われ、二重に苦しめられたことより明和九(めいわく)という年号が悪いと「安永」に改められた。 江戸時代は一世一元制(一天皇一元号)ではなく、吉凶により天皇一代の間に元号は何度も改められた。 江戸の元号 元号 西暦 慶長 けいちょう 1596. 27 〜 1615. 12 元和 げんな 1615. 13 〜 1624. 29 元和偃武 寛永 かんえい 1624. 30 〜 1644. 15 寛永寺 寛永通宝 正保 しょうほう 1644. 16 〜 1648. 14 慶安 けいあん 1648. 15 〜 1652. 17 慶安の変 承応 じょうおう 1652. 18 〜 1655. 12 明暦 めいれき 1655. 13 〜 1658. 22 明暦の大火 万治 まんじ 1658. 23 〜 1661. 24 寛文 かんぶん 1661. 25 〜 1673. 20 延宝 えんぽう 1673. 21 〜 1681. 28 天和 てんな 1681. 29 〜 1684. 21 〜 1688. 元禄 げんろく 1688. 30 〜 1704. 12 宝永 ほうえい 1704. 13 〜 1711. 24 正徳 しょうとく 1711. 25 〜 1716. 21 享保 きょうほう 1716. 22 〜 1736. 27 享保の改革 元文 げんぶん 1736. 28 〜 1741. 26 寛保 かんぽう 1741. 27 〜 1744. 20 延享 えんきょう 1744. 21 〜 1748. 11 寛延 かんえん 1748. 12 〜 1751. 26 宝暦 ほうれき 1751. 27 〜 1764. 1 宝暦事件 明和 めいわ 1764. 2 〜 1772. 15 安永 あんえい 1772. 16 〜 1781. 1 天明 てんめい 1781. 2 〜 1789. 24 天明の大飢饉 寛政 かんせい 1789. 25 〜 1801. 4 寛政の改革 享和 きょうわ 1801. 5 〜 1804. 10 文化 ぶんか 1804. 11 〜 1818. 21 文政 ぶんせい 1818. 22 〜 1830. 9 天保 てんぽう 1830. 10 〜 1844. 1 天保の改革 弘化 こうか 1844. 2 〜 1848. 27 嘉永 かえい 1848. 28 〜 1854. 26 安政 あんせい 1854. 27 〜 1860. 17 安政の大獄 安政の大地震 万延 まんえん 1860. 18 〜 1861. 18 文久 ぶんきゅう 1861. 19 〜 1864. 20 〜 1865. 7 〜 1868.

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