日中戦争 なんj。 朝鮮人「朝鮮戦争で日本は負けた」←これ : なんJ HERO

日清戦争、日露戦争、WW1(青島戦)、日中戦争、太平洋戦争 ←全部日本の宣戦布告なしの奇襲で開戦

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一番公正な歴史教科書は日本・米スタンフォード大学 戦争賛美せず 愛国心あおらず 日本は最も抑制 先の大戦に対する各国の歴史認識問題が、アジアの国際関係に影を落とし続けている。 米スタンフォード大学アジア太平洋研究センターは、日中韓と米国、台湾の高校歴史教科書比較研究プロジェクトを実施し、日本の教科書は戦争を賛美せず、最も抑制的だと指摘した。 日本の教科書: 今回比較した中では日本の教科書が最も愛国的記述がなく、戦争の賛美などは全くしていない。 日本の中国進出についてのくだりは全く事実をそのまま伝えており、当時の軍と政府のリーダーたちの責任だとしている。 非常に平板なスタイルでの事実の羅列であり、感情的なものがない。 韓国の教科書: 韓国の教科書は特にナショナル・アイデンティティーの意識の形成に強く焦点を当てている。 自分たち韓国人に起こったことを詳細かつ念入りに記述している。 韓国の教科書は、中国で起きた戦争に関する記述が希薄だ。 韓国は日本の中国に対する行為には興味はなく、日本が自分たちに行ったことだけに関心がある。 私が驚愕した一つの例は、主要な韓国の教科書には広島長崎の原爆投下の記述がないことだ。 それほどまでに彼らは自己中心的にしか歴史を見ていない。 米国の教科書: 米国の教科書は日中戦争について多く語っていない。 米国の教科書は、第二次世界大戦について、アジアよりもヨーロッパでの戦争の方により焦点を当てる傾向がある。 ニュルンベルク裁判についてはたくさんの記述があるが、東京裁判については大変少ない。 中国の教科書: 歴史学の観点から見て、最も問題が多いのは中国の教科書だ。 中国の教科書は全くのプロパガンダになっている。 共産党のイデオロギーに満ちており、非常に政治化されている。 太平洋戦争に関してほとんど記述がなく、広島・長崎の原爆投下もほとんど言及していない。 中国の教科書は2004年に改定されているが、改定後は中国人の愛国心を謳い、日本との戦いを強調している。 内戦の話は後退し、抗日戦線での勇ましい描写が増えた。 南京事件などをより詳細に記述するなど、日本軍による残虐行為もより強調されている。 つまり中国人のナショナリズムを煽っている。 台湾の教科書: 国民党支配下で書かれた古い教科書には、中国王朝の歴史だけを学んでいた。 しかし新しい教科書からは、台湾という国家の視点よって書かれ、台湾それ自身の歴史を教えることになった。 台湾と中国両方の教科書が、異なった理由でだが国共内戦を強調しなくなっている。 台湾の新しい教科書では日中戦争の強調は抑えられ、南京事件なども大幅に削っている。 台湾の日本による植民地時代の論点は、当時の日本の政治状況と関連づけて述べられており、 日本の悪行を書いてはいるが、かなり正確な分析をしている。

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支那事変とは、12年(7年)〜16年(11年)の期間、溝事件に端を発するとにおけるである。 「 日中戦争」と表現すると11年以後も含み、までしたことになる。 概要 支那事変は12年に溝を発端に北支()へとが拡大。 勃発後は、中支(中)、さらには全土へと広がっていった。 なぜ支那事変という呼称が用いられたかについてだが、当初は両ともをなわなかったためである。 (とはをした上でなわれるであるのに対し、事変はがないまこなわれるである。 ) がされなかった理由であるが、の場合、になると第三に中立の義務が生じ、外のがなくなり困難になると考えられたためで、の場合は際的孤立を避けるためであった。 16年(11年)の日開戦の後、はをない、支那事変はへとなった。 (の一部ということになった。 ) の仲である率いると率いるが手を組み、連合のの元8年にも渡る長い戦いが始まった。 の受諾に伴う降伏後、日中戦争は終結。 そしてとの協関係は終わり、共内戦という第二の戦いが再開されることになる・・・ 中国革命 20世紀、義絶頂期、・列強は・のを推し進めていた。 はを含む列強各によって租界と呼ばれる居留地が数に存在していた。 その状況を憂いたはを起こし、を滅亡させると「列強に負けない強い」をし統一を推し進めた。 しかし、内部は分裂し、各軍閥が統一をした。 所謂、軍閥割拠時代である。 後、、、などの消滅により全でが展開。 各でもが盛んとなった。 租界地でも活動が活発になり列強各は警備の為に軍隊をする。 も相次ぐ破壊活動(現地邦人が殺、商店の襲撃)により軍隊をする。 閥同士の争いも活発になった。 11年、が結成される。 の後継者、は反共義者であり、がをしているとして員を多数処刑している。 () これにより()とによる共内戦()が始まる。 同年、はの北伐(内の軍閥を潰しをすこと)に刺を受け、山東省に出兵を決定。 第山東出兵まで行った。 それによりの感情が、反らに転換した。 現地では小規模な衝突が起こり軍による人の射殺事件も起こり、世論も、になった。 0年、が起こりが誕生する。 これにより、及びでの権益独占を狙っていたが反発。 は際非難(にを持っている欧)を浴びを脱退する。 3年、共内戦は軍がを壊滅寸前まで追いつめていた。 軍は長征(撤退)を行う。 はとの関係補修を図るが、活動が活発になりの襲撃が止まず両の溝は深まるだけだった。 そんな中、西安事件が発生し、軟禁されたはやむを得ずとのを中断し、との戦いに向かう。 盧溝橋事件(北支事変) 7年、当時北支に居留民保護の為、駐在していた陸軍部隊の中に実弾が二発発され溝事件が勃発する。 (かどちらが撃ったかは)事件は沈静化するも、とは兵を決定。 は兵しながらも不拡大方針を明、現地解決を閣議決定した。 しかし、は対日を呼びかけると、もやむを得ない場合は全面対決すると明した。 は、に配慮して事件の沈静化を狙う停戦協定を申し出るも、再び軍(正規軍)による攻撃が始り、同年に軍はに対し武行使を行うと正式に決まった。 郎坊事件と広安門事件 軍は速、及びの電線切断を展開。 に訪れたを襲撃する事件、郎坊事件が発生した。 はした電線で援軍を要請。 翌日には、による軍地を襲して地を占領。 は、事情の説明をめるも軍より回答はなかった。 また、居留民保護の為、出動していたに軍が発する広安門事件が発生。 さらに在留人がされるが起こると内世論は昂し「暴戻膺懲」を唱えて もはや全面も辞さない構えとなった。 これにより不拡大方針から拡大方針へ支持が集まるようになった。 上海事変 第二次 では、溝事件前からと軍との間では険悪なが漂っていた。 6年にはに駐在していた事顧問団ハウゼンはに対日開戦を進言、6年末には停戦協定を破って、の非武装地帯に地構築を行っていた。 軍は精鋭部隊を配備。 特に教導総隊などは、前記した事顧問団から訓練を受け、製のを装備しており、最精鋭部隊と評価されていた。 また一部の部隊はを装備していた。 7年、北支事変が起こると緊は一気に高まり一触即発の様相を呈していた。 そんな中、軍人撃事件(軍事件)、兵事件が発生。 衝突は時間の問題となった。 、軍約3万が内の際共同租界の地区を包囲。 対するは、軍陸4千だけだった。 側は撤退を要するも、聞き入れられず、陸軍に増援を要請した。 13日には側の撃により開始。 陸は応戦する積極的な攻撃を行わず、もっぱら防戦一方であった。 軍機がを行っても対を行わなかった。 しかし撃も始まり、15日にはも不拡大方針を撤回。 軍隊による初の渡洋を敢行。 また各地の特別陸をに、軍の攻撃が続く中、各拠点を死守した。 、軍(陸軍2個師団)が上陸。 攻勢に出るも、強固なに阻まれ思うように進撃が出来なかった。 、軍はゼークを攻撃し突破。 これはの戦いを経験しないが初めて経験した突破だった。 は本軍が制圧した。 しかし、一部の地は突破できずにいた。 、第10軍()がに上陸すると、軍は退路を断たれる危険から一斉に退却を開始。 退却中はに物資を使用させないようにと共施設かまで全て破壊した。 軍は第10軍と共に追撃に出るが、退却のが速く捕捉出来なかった。 南京攻略戦 で軍が敗退すると、期にを終わらせようと現地軍()は追撃戦に移行した。 大本営(7年設置)は範囲からすると停止命を打診する。 しかし、期解決の判断から追撃を容認、南戦のを出した。 、は南へ攻撃を開始する。 率いる首部及び役人は南総を残して出し、状態となり、内の整備が全て止まってしまった。 による降伏勧告も視され、総攻撃が始まった。 南は「各自脱出して集結せよ」と命を残して脱出。 しかし、後方には督が逃亡する味方将兵に攻撃を行っていた。 は南内に突入。 残党を排除する。 その過程でが発生する。 殺人数や方法、動機や命の有などを巡りが絶えず、でも事件の詳細は不明なままである。 内では南陥落を祝い提など祝賀会が開けれた。 しかし、既にはを南からへ移し、の構えを見せていた。 のは南陥落の報を受けて祝杯を上げて、大喜びした。 徐州攻略~武漢作戦まで 南を陥落ものの、軍の殲滅にはさらに追撃を開始した。 徐州にが集まっているとのを受けては徐州へ向かう。 ここでも素い退却により軍は殲滅を免れる。 またこの時に機がへ、ビラ撒いている。 は軍の敗退は内部にが居る為だと疑い、少しでもの事を喋っている者を多数処刑している。 また、の進撃を遅らせる為に河の防を破壊するが開始した。 結果の進撃は止まったものの、自民数十万人を犠牲にした。 はの仕業として非難した。 はの要衝であるを占領してに圧を掛けようとした。 行われたはで行われた中最大規模であり、あの以上であった。 は成功するが結局殲滅には至らなかった。 支那事変から大東亜戦争へ 11年には正式にに。 は対英を含め「」と呼称することを決めた。 関連項目•

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【世界大戦】米中戦争、開戦へ…なんJ民さん、WW3で盛り上がる😄

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日本軍侵攻に救われた? 1937年からのは日本では「事変」と呼ばれ、日本政府は「事変」であり「戦争」ではないと唱えていました。 軍にとっての主敵は米英、にとっての主敵はであって中国を主戦場にするつもりはありませんでした。 など日本軍が少し本気を出せば簡単に降参する、という尊大な慢心が「事変」という言い方に現れているとも言えます。 を上の「戦争」にしないことで第三国の支援を得るという意味は日中双方とも共有していましたが、中国側が純粋に第三国支援の必要性から上の「戦争」を避けたのに対し、日本側には第三国支援の必要性の他に中国を軽視した慢心があったという点で異なります。 しかし、簡単に降参すると思っていた中国が、北京、上海、南京と大都市を失っても抗戦意識が衰えなかったことで、日本側の計算が狂い始めます。 特に日本国民の中国に対する軽侮・優越意識を多分に含んだ熱狂は、それを煽った政府・軍部のコンを超えて拡大し、対中国講和条件は中国側が容易に飲めないような過大なものとなり、出征兵士の占領地での横暴を加速させ、「英霊に申し訳ない」「犠牲を払った日本人が中国で優位を占めるのは当然」という感情論が蔓延していきます。 これにより、は長期化していきます。 直前の中国の状況は、1926年に国民革命軍総司令に就任したはを「内憂」、日本の侵略を「外患」とみなし、まずを排除した後に日本軍の侵攻に対処する「安内攘外」論を主張しています(1931年)。 当時、事変など日本の侵略により東北4省を失い、にも日本の侵略が迫っていましたが、それでもなおは壊滅を優先した政策を採り続けました。 1935年、は瑞金を中心とした根拠地を包囲攻撃し、は遂に瑞金を放棄し撤退を開始します。 当初はただの撤退でしたが、国民政府軍の執拗な追撃を振り切り、時に地方を脅かすなどその存在感を示すようになります。 巧みな機動戦でを翻弄したは、この撤退戦の中での主導的な地位を確固たるものにしています。 最終的にはの根拠地の部隊との合流を果たし、苦難の撤退戦は「長征」と呼ばれるようになるわけです。 長征は、それだけでも多くの研究書が書かれるくらい複雑な事件ですが、日本の者は「ただの逃亡」扱いして軽視します。 研究書の一冊でも読めば「逃走」の一言で片付けられるような事件でないことは明らかなのですが。 長征後も国民政府は根拠地に対する攻撃を企図しますが、日本による侵略がに迫る中で既に世論は抗日優先に傾きつつあり、1936年のでが事実上成立するに至ります。 このは中国世論がを支持し一致抗日に傾いたことを示す事件でしたが、日本はその意味を理解することが出来ず侵略政策を続けて、盧溝橋事件へと至ります。 そしてを軽視していた日本軍は激しい抵抗にあい、泥沼の長期戦に引きずりこまれることになります。 ある意味で、盧溝橋以前の日本軍の中国侵略政策が、国民政府軍に攻撃されていたを救った、と解することもできるでしょう。 によって軍事的にの戦力が飛躍的に増大したかというとそうではありません。 もともと100万人以上の国民政府軍に対しては5万人程度の兵力しかありませんでしたから戦力だけで見てもの効果は見えません。 の効果は、中国全土が一致団結して抗日戦争に協力した点にあります。 それまで日本軍の侵略に対して、地方や時にはが日本側に妥協して領土や権益を失ってきましたが、後は民意の手前、そういう妥協がほぼ出来なくなりました。 日本軍と妥協する者はだという認識が一般化された結果、そこそこの規模のはとの協力を強化していったわけです。 一撃すればは降参すると思っていた日本軍にとって、質の低い小くらいしか日本に降ってこない状況は予想外でした。 多くのは、自己の存在意義をかけて日本軍と戦い、上海、南京、徐州などの大都市失陥後も頑強に抵抗することになります。 毛戦略の第三段階は実現せず? 「その時、は何を考えていたのか。 は「持久戦論」で次のように主張した。 「日本は強力な国家で、軍事力・経済力は東洋一であり、中国は日本に速戦速勝できない。 しかし日本は国土が小さく、人口、資源が欠乏し、長期戦には耐えられない。 したがって、敵の後方で遊撃戦を展開し、敵の内部崩壊を促進すれば、中国が最後にする」 「持久戦論」は戦争を三段階に分ける。 第一段階は日本軍の戦略的進攻との防御の時期である。 第二段階は日本軍との戦略的対峙(たいじ)の段階だ。 第三段階はが運動戦と陣地戦で日本軍を殲滅(せんめつ)する最終段階である。 によると、第一段階は37〜38年、第二段階は38〜43年、第三段階は43〜45年となっている。 しかし、日本軍は44年から45年にかけて50万人の兵力を動員し、で最大の作戦となった「」を実行して洛陽や長沙を攻略した。 中国の戦場では45年においても日本軍は優勢であった。 現実のでは第三段階は実現せず、日本軍が太平洋で対米戦争に敗北することにより、中国における戦争は終わった。 」との村井氏は述べていますが、この程度の認識ではがと戦争しても、また負けることになるでしょう。 アルデンヌ攻勢を挙げてドイツ軍は優勢だったと主張するようなものですが、は戦略目的という意味では何も達成することが出来なかった失敗です。 主な戦略目的は連合軍飛行場の破壊と南方からの陸路開通とされますが、それを高次で見れば、対日の抑止と南方の補完だと言えます。 前者は陥落によって破綻し、後者は結局海上輸送の代替となりえず、いずれも成功しなかったわけです。 確かにで日本軍は暴れまわったと言えますが、それはただ暴れまわっただけで、命と資源の浪費に過ぎませんでした。 そして何より、このような無駄な大作戦に多くの兵力をつぎ込んだ結果、他の占領地の兵力が希薄になり、そこを軍に衝かれて多くの占領地を失っていきました。 1943年以降、特に1944年になってからはの攻勢は著しく、占領地末端の地方都市はの圧迫を受け失陥する場所が増えていきます。 日本軍主力は勝ち続けていながら、いつの間にか周囲は敵だらけになっていたわけです。 やナポレオンが戦場では連戦連勝しながら最後には戦争に負けたのと同じです。 1945年春以降になると中国戦線でも明らかに日本軍は劣勢になり、日本軍は主力を海岸部に引き上げ戦力の再集結を図ります。 占領地の放棄と引き換えに主戦力の温存を図ったわけですが、温存された末端の兵士たちは戦闘に負けたという経験を経なかったため、には負けていないという錯覚を抱くようになります。 しかし、占領地を維持できずに放棄したのなら、それは負けということです。 夏になると軍の攻勢は大規模化し、日本軍は次々と占領地を失いますが、は最終的なを迎える前に日本本国が無条件降伏したため、を免れました。 1943年以降、遅くとも1944年には「毛戦略の第三段階」に入っていましたが、日本軍を殲滅する前に日本本国が降伏してしまったに過ぎません。 ところで村井氏はこのようなことを言っています。 中、国民党の地方は対立抗争を繰り返し、軍は地方都市を占領しての主要な戦闘には参加せず、37年の上海戦、38年の徐州戦、三鎮攻防戦にもその後の長沙戦にも、戦線にも出ていない。 1937年以降のにおいて、国民党の地方が対立抗争を繰り返したと言うのは事実に反します。 むしろをきっかけにへの権限委譲が進み地方の中央軍化が為されています。 末端やあるいは政治闘争と言ったものはありましたが、それは日本内部でもあった話です。 国民党とが対立し、時に戦火を交えたことは事実ですが、それでもが崩壊に至ったわけではありません。 「軍は地方都市を占領しての主要な戦闘には参加せず」というのも、遊撃戦を理解していない戯言ですね。 両軍の主力正規部隊が戦場で会して正面から激突する会戦だけが戦争ではありません。 ではベトミンと米軍が正面から激突する会戦などは惹起していません。 それでも米軍は負けました。 村井氏の脳内ではは米軍の大なのかもしれませんが。 日本軍はのほぼ全期間にわたって中国戦線に100万人規模の軍隊を張り付け続けました。 このうち会戦形式での戦闘を想定した部隊はの第11軍くらいで、その他は占領地警備が主任務と言っていい状態でした。 例えば、第1軍は、第12軍は省を警備する部隊でしたが、国民政府軍がほとんど皆無のこの地域にこれらの部隊が必要とされたのは、最後まで軍に対する備えが不可欠だったからです。 が抗日戦争で何もしなかったのなら、これら中国駐屯の日本軍は太平洋で友軍が苦戦しているのを尻目にただ遊んでいたことになり、大元帥含めたはアホの集団ということになります。 実際には、これだけの警備兵力を置かなければ占領地の維持すら覚束ないほど、軍の脅威は深刻だったのです。 における日本軍の戦死者約240万人のうち、中国戦線での戦死者は約46万人である。 中国一国と戦っている限り、日本本土は攻撃されず、戦死者が耐え難いまでに夥(おびただ)しい数になることもなかっただろう。 の勝敗を決した最大の要因は、米国の軍事力にほかならなかった。 村井氏にとって、「中国戦線での戦死者」約46万人は大した数ではなかった、という認識のようです。 国家にとって兵士の命などその程度の価値しかないのでしょう。 脳内で戦争を語るような軍オタにも似たような傾向が見受けられますが。 の戦い による抗日戦争は、多くが遊撃戦です。 戦闘として有名なのは攻防戦の一部である平型関の戦闘や同時多発させた遊撃戦攻勢である百団大戦が知られていますが、それだけしか知らないと遊撃戦の本質を見落とすことになるでしょう。 日本軍や傀儡軍の大隊・中隊・小隊規模の討伐隊を伏撃したり、輜重部隊や輸送路に対する攻撃などが軍の戦闘の基本と言えます。 敵の弱点を叩くという極初歩的な戦術です。 類似する戦法を海上で行うのが潜水艦と言えるかもしれません。 潜水艦による海上輸送路への攻撃は日本を確実に追い詰めましたが、潜水艦による攻撃などにいちいち海戦名は付きません。 の遊撃戦も個々の小さな戦闘に名前は付きませんが、確実に日本軍を追い詰めていきました。 米軍の潜水艦が名のある海戦で活躍しなかったからと言って軽視する論者がいれば、相当バカにされるでしょうが、遊撃戦となるとそれが理解できなくなる人たちが大勢いるのは困ったものです。 とは言え、名前のないものを認識するのが難しいのも道理です。 そんなわけで軍の主導した戦闘でそれなりに有名なものを列挙しておきます。 平型関戦闘(1937年9月25日)、晋察冀軍区反囲攻(1937年11月-12月)、晋西北区反囲攻(1938年3月)、神頭嶺戦闘(1938年3月16日)、晋東南反九路囲攻(1938年4月)、保衛河防作戦(1938年5月-1939年)、馬家園戦闘(1938年10月-11月)、斉会戦闘(1939年4月)、陸房戦闘(1939年5月)、梁山戦闘(1939年8月2日)、陳庄戦闘(1939年9月)、区冬季反掃討(1939年10月-12月)、晋西北区夏季反掃討(1940年6月-7月)、百団大戦(1940年8月-12月)、沂蒙山区反掃討(1941年11月-12月)、晋西北区春季反掃討(1942年2月-3月)、冀中区五一反掃討(1942年5月-6月)、田家会戦闘(1942年5月)、沁源囲困戦(1942年11月-1945年4月)、蘇中反清郷(1943年4月-12月)、甄家庄戦闘(1943年10月)、車橋戦闘(1944年3月)、春季攻勢(1945年1月-3月)、子牙河戦役(1945年6月-7月)、安陽戦役(1945年6月-7月).

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