明智 光秀 子供。 明智光秀の子供達を一覧解説!本能寺の変の後子供達はどうなった?

明智光秀の子孫と細川ガラシャ(明智玉子)の子孫

明智 光秀 子供

「日本史上最大のミステリー」と言われ、知らない人はいない事件「本能寺の変」。 信長の家臣・明智光秀が主君を討った事件です。 これほど有名にも関わらず、いまだその動機は謎のまま(多くの説が飛び交っている)であることも、人の興味を惹きつける理由かもしれません。 ところで、信長を討った謀反人の明智光秀の子孫が現代まで続いていることをご存知でしょうか?歴史の中では山崎の戦いの後に皆自害したことになっているのですが、実はこっそり坂本城から逃れ、名を変えて生き延びた子孫がいた、という話がちらほらあるのです。 落ち武者狩りに遭って亡くなったという光秀自身に生存説があるくらいなので、子孫の生存説があってもおかしくはありません。 しかし、光秀の子孫たちはどのようにして血をつないでいったのでしょうか。 (文=東 滋実) 【目次】• 謀反人は一族郎党皆殺しが基本 明智光秀の子孫について語る前に、まず当時の謀反人一族がどのような扱いを受けたか、荒木村重と豊臣秀次の2つの例を紹介しましょう。 荒木村重の例 荒木村重は信長が重用しており、村重の息子には光秀の長女が嫁いでいるなど、光秀にとっても関係の深い人物でした。 ところが村重は突如謀反。 天正6(1578)年からの「有岡城の戦い」で籠城戦を行いますが、戦力差は圧倒的で無謀な戦いでした。 結局、村重・村次親子は城を出て逃走。 村重が生き残って秀吉の御伽衆の一員になったことは有名ですが、村重親子に置いて行かれた一族と家臣一族の末路は悲惨なものでした。 荒木一族と家臣一族の処刑は大河ドラマ『軍師官兵衛』が記憶に新しいですが、村重の美貌の正室・だしを筆頭に、一族と家臣、そしてその妻子、その他人質を含めた670名もの関係者が処刑されたのです。 妻子を捨てて逃げ延び、のちに出家して茶人となった村重。 とはいえ、やはり生き残りの子孫というのは存在するもので、江戸時代の絵師・岩佐又兵衛は村重の子孫だといわれていますし、細川忠興が引き取って育てた子もいると伝えられています。 豊臣秀次の例 続いては身内から出た謀反人を容赦なく、一族39人を惨殺したという例です。 天下人となった豊臣秀吉の後継者候補として有力だった甥の秀次。 順調に秀吉の後を継ぐべく働いて2代目関白となりますが、秀吉に秀頼が生まれたあたりからその存在は疎まれるように…。 果てには謀反を企てたとして切腹を命じられてしまいます。 それに連座したのが秀次の妻子ら39名でした。 秀次は切腹。 その妻子は、年端もゆかぬ幼子まで容赦なく京都三条河原で公開処刑された、と伝えられています。 豊臣秀次と連座者の墓所(瑞泉寺境内。 出所:) こちらは大河ドラマ『真田丸』で描かれましたよね。 秀次の子で唯一処刑を免れたとされるのが隆清院で、真田信繁の側室になったとされる女性です。 なぜ処刑から逃れることができたのかはわかっていません。 史料でみた光秀の妻子の末路 このように、一部乳母に連れられて生き残るという例はちらほらあるものの、多くの謀反人一族の末路は処刑による死でした。 光秀も信長を討った後二週間もたたずに山崎の戦いで敗死。 当然その一族を待っているのも死のみでした。 のちに秀吉の御伽衆・大村由己によって書かれた『惟任退治記』には、光秀の妻子の最期はこのように記されています。 「明智彌平次聞届此由。 惟任一類。 其身眷屬。 悉差殺。 殿守懸火。 成自害。 敵味方共所相感也」 坂本城で光秀の死の報を聞いた娘婿の秀満は、光秀の妻子および自身の妻子を刺し殺し、その後城に火をかけて自害したとされています。 光秀の実子は生き延びていたかも!? 自身も光秀の子孫を名乗る明智憲三郎氏は、著書『本能寺の変 431年目の真実』の中で上記のフロイスの記録を挙げ、光秀の実子が落ちのびた可能性を示しています。 というのも、秀吉は山崎の戦い後に明智の残党狩りを徹底的に行っていたものの、「光秀の子を捕らえ処刑した」という記録はどこにもないのです。 フロイスの記述によれば、秀吉方の軍が到着したときには坂本城内から多数の人間が逃れた後だったといいます。 つまり、光秀の子が逃げる機会は十分あったということです。 おまけに、フロイスが本能寺の変の後に書いた『1582年日本年報追加』によれば、死んだとされる二人の子(男子のことと思われる)は逃げたという噂もあったようです。 明智憲三郎氏は同書の中で、 「光秀の謀反はそもそも一族を滅亡から救う目的で起こしたのだ」 として、 「結局、坂本城に帰り着けたのは秀満だけだった。 坂本城に戻った秀満がなすべきことは、光秀の子供たちを無事に落ち延びさせることだったのだ」 と当時の秀満に与えられた役割について結論付けています。 光秀の子孫・末裔とされる人々 さて、ここでは光秀の子孫として伝わっている人々(自称含む)を一部紹介しましょう。 当然ですが、ここで紹介できるのは政治・文化などで世間に名が知れている著名人のみ。 一般人の方の中にも光秀の子孫と伝わる人々はもっと大勢存在するでしょう。 明智憲三郎氏(光秀の子・於寉丸の子孫)【作家・歴史研究家】• 細川隆一郎氏(光秀の三女・ガラシャの子孫)【政治評論家】• 細川隆三(細川隆一郎氏の長男)【テレビ朝日報道局デスク】• 細川珠生(細川隆一郎氏の娘)【政治ジャーナリスト】• クリス・ペプラー氏(光秀の実子か、ともいわれる土岐頼勝の子孫)【タレント・ナレーター】• 坂本龍馬(光秀の娘婿・秀満の子孫か)• 内田青虹氏(詳細は不明、おそらくガラシャの子孫)【日本画家】• 明智ハナエリカ氏(末裔といわれている。 詳細は不明)【ミュージシャン】 於寉丸 まずは明智憲三郎氏の祖先・於寉丸(おづるまる)について。 光秀には複数の子どもがいたらしいことはわかっているのですが、実は系図によって人数も構成もバラバラ。 存在が確認できているのは嫡男とされている明智光慶のみ(光秀とともに連歌会に参加した記録がある)なのです。 ちなみに光慶は本能寺の変の際には丹波亀山城におり、父光秀が討たれた後、高山右近・中川清秀の軍勢に攻め込まれて自害したとか。 上から僧玄琳、安古丸、僧不立、十内、自然、内治麻呂がいます。 自然(じねん)は大河ドラマ『おんな城主直虎』では井伊谷に落ち延びた設定で描かれていましたね。 しかし、ここに於寉丸の名はありません。 では『明智軍記』はどうか。 こちらは男子については3名のみ。 嫡男の光慶、十次郎、乙寿丸です。 こちらにも於寉丸の名はありません。 あるいは煕子一筋とされる光秀にも側室がおり、世間には知られていない子が存在した可能性も考えられます。 いずれにしても光秀の子は系図によってバラバラで不明な部分が多く、実際は何人の子がいたのかもよくわかっていません。 於寉丸の存在を疑問視する声もありますが、これだけ系図がはっきりしないのでこういう実子がいたとしても不思議ではありません。 なお、明智憲三郎氏の家系は250年前までさかのぼれるものの、光秀までの残り150年は調査中とのことです。 ガラシャの子孫 次に明智珠(細川ガラシャ)の流れをみてみましょう。 ガラシャは光秀の娘で細川忠興の正室としても有名ですね。 光秀の死後は逆臣の娘として苦悩の日々を送ったことでしょう。 のちにキリシタンとなり、最期は関ケ原合戦の際に石田三成の人質になることを拒否して自害しました。 キリシタンとなり、壮絶な最期を遂げた細川ガラシャ(明智玉) 忠興とガラシャ夫婦の直系の子孫は著名人に複数存在しています。 細川家は江戸時代以降も代々肥後熊本藩主をつとめており、こちらは謀反人の家系ではないので系図もしっかり残っています。 細川家に嫁いだガラシャの子孫なので、明智の直系とは言えませんが、光秀の血を受け継いでいることは確かです。 ガラシャと忠興の子には、男子は忠隆、興秋、忠利、女子は於長(おちょう/前野景定の正室)、多羅(たら/稲葉一通室)。 正室であるガラシャが産んだのは3男2女。 実は3人の男子のうち忠興の後継となったのは三男の忠利でした。 というのも長男の忠興はガラシャを亡くして悲しみ、自分は辛いのに妻がいる長男を妬んで離婚するよう命じるも、忠隆が従わなかったために廃嫡。 次男は徳川の人質になる際に出奔して出家したからです。 そのため直系の子孫というと忠利の流れになるのでしょうが、ここでは廃嫡された忠隆の流れにある人物を紹介します。 政治評論家の故・細川隆一郎氏とその子らは忠隆の子孫であるといわれています。 また、元内閣総理大臣・細川護熙は遠い親戚にあたるようです(細川護熙氏は忠興直系の子孫ですが、養子を経ているためガラシャの血は受け継いでいない)。 光秀の実子が土岐氏の養子に クリス・ペプラー氏の祖先に関しては、2016年にテレビ番組で調査が行われて土岐頼勝であると判明しています。 この調査にあたった明智憲三郎氏は頼勝が光秀の実子である可能性を示し、「100%ではないがクリス・ペプラー氏は光秀の末裔と言っていい」と結論付けています。 頼勝が光秀の実子でなかったとしても、光秀も土岐氏の支流・明智氏の出身。 親族の流れにあることは確かなようです。 全国各地で伝わる「光秀子孫」の言い伝え そのほか、各地に光秀の子孫が逃れ隠れ住んだという言い伝えが残っているようです。 上総国(現在の千葉県)には光秀の側室とその子が逃れてきたという伝承があり、その地には側室と子のものと伝わっている墓も存在するとか。 また、四国(讃岐)には明智秀満の子6人が逃れて「土岐氏」を名乗った伝承もあるそうで、明智憲三郎氏が坂本龍馬の末裔説について「可能性はある」というのも、四国に秀満の子らが渡った、という伝承があるからでしょう。 その他各地に同様の言い伝えがあり、光秀の子孫は口伝で受け継いでいるのだとか。 どのようにして血脈を保ったのか ここで紹介している子孫については史料が残っておらず、はっきりしない例がほとんどです。 光秀の子孫だ、血を受け継いでいると言えるのは細川家の子孫として挙げた人々だけかもしれません。 光秀の子孫だという根拠に信憑性はあるのか? その他の人々が光秀の子孫だという根拠はあるのかというと、ほとんどないでしょう。 近江の土岐氏に匿われたという子孫の家系は光秀が書いたとされる「家中法度」が伝わるなど、光秀とのつながりを示す文書が残っています。 しかし、たいていの場合は口頭でのみ「光秀の子孫である」と受け継がれたので、光秀につながる系図などは基本的にないのです。 出自を隠して生き延びた そもそも、謀反人の子孫がどうして生き延びることができたのかを考える必要があります。 彼らは秀吉方の残党狩りの目をかいくぐり、息を殺すようにして名を変え、親しい人や縁者を頼って生き延びたと考えられます。 光秀との関係を示す「明智」姓はまず名乗ることができず、養子に入ったり名字を変えたり、出自を隠すことを余儀なくされました。 明智憲三郎氏の一族も同じで、曾祖父の代までは「明田(あけた)」姓を名乗っており、曾祖父が政府に復姓を申請してやっと明智姓に戻ることができたのだとか。 多くの子孫の家系は、もしかするといまだに明智を名乗れないまま別の姓で生きているのかもしれません。 このように名前を隠して血をつなぎ、光秀の子孫であることは直系の男子だけが受け継ぐトップシークレットだったいう家もあるようで、日本画家の内田青虹氏の家がまさにそのようにして伝えてきたのだとか。 光秀の子孫は、そうでもしなければ生き延びることができなかった。 そうすることでやっと現代まで血をつなぐことができたのです。 【参考文献】• 『歴史読本』編集部編『ここまでわかった!明智光秀の謎』(株式会社KADOKAWA、2014年)• 明智憲三郎『本能寺の変 431年目の真実』(文芸社、2013年)• 高澤 等『戦国武将 敗者の子孫たち』(洋泉社、2012年)• 明智憲三郎氏の公式ブログ.

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スポンサーリンク 信長ってみんなにどう思われていたんだろう? そもそも、信長って当時は人気者だったのでしょうか? 信長の死を知って大泣きし、仇討ちのために大急ぎで備中高松城(現在の岡山県岡山市)から京都へ帰ってきた秀吉。 でも、光秀を討ってからの行動を見ると、信長のためだったのか自分の天下のためだったのかわからないところがあります。 家康はと言えば、信長から疑われて自分の奥さん(築山殿)と長男(信康)を殺さざるを得ませんでした。 言わば、妻と息子の仇。 恨みがなかったとは思えません。 そして将軍足利義昭。 信長の力で将軍職につけてもらったとは言え、明らかにお飾りの操り人形。 これでは話が違うと、憎んでいたに違いありません。 更に、焼き討ちにあった比叡山や、大坂(今の大阪)を追い出された石山本願寺に関わる人たちも怒っていたに違いありません。 織田家の他の諸将も日頃から信長のパワハラに怯えながら暮らしていました。 おそらく当時でも珍しいブラック企業。 上杉との戦いで戻ってくるのが遅れたという柴田勝家ですが、「光秀、よくやった!」という気持ちが全くなかったと言えるかどうか…。 信長を恨んでいなかったのは、楽市楽座で潤った商人たちぐらいかもしれません。 こんなふうに見ていくと、誰がやってもおかしくない…アガサ・クリスティーのミステリーみたいな状況です。 そこで起きた遺体のない放火事件。 どんな筋書きでも描けてしまえそうです。 陽明門の門衛の袴や、鐘楼の壁やひさしに同じ紋があるというのです。 専門家によれば、いずれも思い過ごしのようですが。 しかし、それだけではありません。 日光の第二いろは坂をほぼのぼりきった所に「明智平」という場所があります。 ロープウェイに乗ると明智平展望台に行くこともできます。 男体山、中禅寺湖、華厳の滝を一望できる絶景ポイントです。 こんな素晴らしいところに「明智」の名が!日光東照宮には神君家康公が祀ってあるというのに。 明智平と命名したのは家康の参謀を務めた天海上人と言われています。 そんなわけで、 天海上人が実は明智光秀その人ではないか?という説まであります。 真偽のほどは分かりませんが、 少なくとも徳川家は光秀を嫌ってはいないということだけは確かなようです。 ひょっとしたら、光秀の子供をかくまっていたかも!? 光秀に子供(息子)はいたのか? さて、光秀に子供はいたのでしょうか? 光秀の娘さんは有名です。 細川ガラシャですね。 自害していますが、それは関ケ原合戦の直前のこと。 夫の細川忠興が出陣する際に「死んでも石田三成の人質にはなるな!」と言い残した命令に従っただけ。 「お父さんが悪いことしてすみませんでした」という理由で死んだのではありませんでした。 明智光秀という人は織田家臣団の中でも大活躍した名将なのですが、なぜか出自がはっきりしていません。 息子が何人いたかとか、その後その子供たちがどうなったかという点に関しては、なおさら信用に足る資料が残っていないのです。 長男とされる明智光慶(みつよし)は、父の凶行を知ってショックのあまり病死したとか、父が討たれたのを知り自害したとか、諸説あるようです。 於鶴丸(おづるまる)という幼名だけが残っている男児がいたようですが、その人がどうなったのかもはっきりしたことは分かっていないようです。 これは怪しい。 むしろ隠蔽のにおいがします。 光秀の子供をかくまって生き延びさせるために、記録を抹消したのではないでしょうか? スポンサーリンク びっくり!光秀の子孫登場! 光秀の子供がいたかもしれない、誰かがかくまっていたかもしれないという疑惑が大きくなったところで…朗報です!自分は明智光秀の子孫だとおっしゃる方がいらっしゃいます。 「本能寺の変 431年目の真実」(文芸社刊)や「織田信長 四三三年目の真実 信長脳を歴史捜査せよ!」(幻冬舎刊)を著した 明智憲三郎氏です。 明智氏は、於鶴丸の子孫にあたるとのこと。 明智氏は『上司(織田信長)にイジメられて殺すなんて、そんな浅はかなことをする祖先だったのか』という疑問をずっと持ち続けていました。 ところがある本の中に『(それは)後世の軍記物による作り話だ』という指摘を見つけ、ホッとしました。 でもすぐに『じゃ、(真実は)何だったの?』という新たな疑問が生まれました。 情報システム分野のエンジニアだった明智氏は、歴史学者が行ってきた従来の調査方法にとらわれない独自の手法で本能寺の変を洗い直しました。 その結果、本能寺の変は光秀と家康の共謀である!という説を提唱しています。 は?!この人も明智光秀の子孫だった!? もう一人。 タレントのクリス・ペプラー氏がある番組の取材の結果、明智光秀の子孫らしいということが分かりました。 クリス氏はドイツ系アメリカ人の父と日本人の母との間に生まれました。 小さいときに母方のお祖母さんから「 あなたは明智光秀の末裔なのよ」と聞かされていました。 そのお祖母さんの墓石には桔梗紋が入っていて、苗字が「土岐」であることに番組は注目。 土岐頼勝の子孫であることが分かりました。 頼勝は明智光秀の実子であるという説があります。 織田信長の子孫に謝罪!? 信長の子孫はちゃんと生き残っています。 この人たちと光秀の子孫が鉢合わせになったら、かなり気まずいですよね。 笑顔の会見だったようで、なんとも微笑ましい話です。 話は変わりますが、2020年のNHK大河ドラマ「麒麟がくる」の主役は明智光秀(主演:長谷川博己)です。 NHKのPRサイトでは「記念すべき2回目の東京オリンピックが行われる…」とか「21世紀の日本にとって大きな節目を迎える年です」とか、いつも以上の気合が感じられます。 「新しい解釈で英雄たちを描く…」とあり、脚本は「池端俊策のオリジナル」となっています。 ひょっとしたら、本能寺の変に関しても今までと全く違う解釈が出てくるかもしれません。 ここは注目ポイントですね。 私事ですが、筆者は山形県出身です。 山形県の天童市と高畠町はかつて織田藩でした。 信長の次男信雄の末裔が治めたとされています。 大河ドラマをきっかけに観光客が増えれば良いなと願っております。 何かのイベントに明智さんとクリスさんを招待したら、断り切れずに来てくださるかもしれませんね 笑。 当時、信長の周囲には彼を憎む人がたくさんいた• 少なくとも徳川家は光秀を嫌ってはいなかったようだ• 明智家の資料を抹消して、子供をかくまった人たちがいたかもしれない• 明智光秀の子孫を名乗る人が独自の研究を発表している• 芸能人の中にも明智光秀の子孫と思われる人がいる•

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明智光秀の子供は?家系図と子孫について

明智 光秀 子供

・「明智軍記」 長女・・・ 明智秀満(ひでみつ)の妻であり、一説では、名前は、倫子(りんこ)と言う。 夫である明智秀満は、明智光秀の家臣であり、明智五家老の一人と呼ばれた。 次女・・・ 明智光忠(みつただ)の妻。 夫である明智光忠は、明智光秀の家臣であり、明智五家老の一人と呼ばれた。 ・「明智系図」 長女・・・ 菅沼 定盈(すがぬま さだみつ)の妻であり、明智光秀の養女。 夫である菅沼 定盈は、徳川家家臣。 次女・・・ 桜井(松平)家次(さくらい いえつぐ)の妻であり、明智光秀の養女。 夫である桜井(松平)家次は、今川家臣。 二つの資料では、長女と次女の嫁ぎ先は、異なっています。 名前も定かではなく、詳しいことは、伝わっていません。 次に、三女と四女を見てみましょう。 細川ガラシャの名前で有名。 夫である細川忠興は、織田、豊臣、徳川の権力者たちに仕え、肥後細川家の基礎を気づいた。 四女・・・ 津田(織田)信澄(つだのぶずみ)の妻。 夫である津田信澄は、織田信長の家臣として活躍した。 ・「明智系図」 三女・・・ 津田(織田)信澄(つだのぶずみ)の妻。 細川ガラシャの名前で有名。 二つの資料では、二人の娘には、三女と四女の違いがあります。 しかし、嫁ぎ先は、二人とも一致しています。 この他に、明智系図では、五女、六女、七女までいますが、資料が乏しく、詳しくはわかりません。 ここで、嫁ぎ先が一致した、三女と四女である二人の娘を、見ていきましょう。 - 2020年 2月月16日午前2時54分PST 大善寺(だいぜんじ)にある津田信澄の供養墓 津田信澄は、織田信秀(信長の父)の息子である、 織田信勝(信行)の長男です。 父である織田信勝(のぶかつ)は、織田信長の弟であり、尾張統一の際に、織田信長によって、討たれています。 津田信澄にとって、 織田信長は叔父にあたります。 織田信勝が織田信長に制裁されると、津田信澄は信長を主君として、武功を挙げます。 津田信澄は、織田信長に厚遇されており、家臣として信頼を得ていました。 1578年(天正6)年には、 近江にある大溝(おおみぞ)城の城主になります。 しかし、 本能寺の変が起きたことにより、津田信澄の人生は、悲劇に一変します。 津田信澄は、織田信孝(のぶたか)を総大将とする、四国討伐軍に編成されていました。 丹羽長秀(にわながひで)、蜂屋頼隆(はちやよりたか)と共に、副将として参加する予定でした。 織田信長は、徳川家康の堺見物の為、津田信澄と丹羽長秀に、大坂での接待役を命じます。 本能寺の変が起きると、大阪城にいた津田信澄は、窮地に立たされることになります。 市中である噂が流れます・・・。 「明智光秀の娘を妻とする津田信澄は、明智光秀と共謀して織田信長を討った」 その噂を聞き、疑心暗鬼になった 織田信孝と丹羽長秀は、津田信澄を襲撃します。 丹羽長秀の家臣・上田重安(うえだしげやす)によって、 津田信澄は、討ち死にします。 謀反人の汚名を着せられた津田信澄は、大坂の堺で、晒し首とされました。 享年25歳とも、28歳とも言われています。 滋賀県高島市に 大善寺(だいぜんじ)があります。 大善寺には、寺の開基をした津田信澄の供養墓と、慰霊の石碑が建てられています。 妻の明智光秀の娘は、 その後の詳細は、明らかになっていません。 もしかしたら、大溝城から落ち延びて、どこかに匿われていたのかもしれません。 息子の津田昌澄(まさずみ)が後に、豊臣家に仕えています。 そこで、親子揃って生涯を閉じたと思いたいですね・・・。 勝竜寺城跡(かつりゅうじじょうあと) 住所:京都府長岡京市勝竜寺13-1 アクセス:JR長岡京駅から徒歩で10分 細川ガラシャの夫・細川忠興(ほそかわ ただおき) 細川ガラシャの夫・細川忠興は、どんな人物だったのでしょうか。 1563(永禄6)年、細川藤孝(幽斎)の長男として、京都で生まれます。 父の細川藤孝は、室町幕府13代将軍の足利義輝(あしかがよしてる)に、仕えていました。 織田政権時代 15将軍・足利義昭(あしかがよしあき)が織田信長と対立するタイミングで、 細川親子は織田家臣となります。 細川忠興は、織田信長の嫡男・織田信忠に仕え、15歳で紀州討伐で初陣を飾ります。 信貴山(しぎさん)城の戦いで、父・幽斎と明智光秀と共に、松永久秀勢を打ち破り、織田信長から感謝状を貰っています。 「細川家記」によると、織田信長から、細川忠興は、部門の棟梁としての器を、褒め称えられています。 本能寺の変が起こると、 明智光秀から、味方の誘いを受けますが、父・細川幽斎と共に拒否します。 この時、父・細川幽斎が隠居しました。 細川忠興は、領国である丹後南半国を譲り受け、 丹後宮津(たんごみやつ)城主となりました。 豊臣政権時代 羽柴秀吉に従順の姿勢をとった細川忠興は、北丹後の一色(いっしき)家を攻め滅ぼします。 その後、細川忠興は、羽柴秀吉によって、丹後全域の領有を許されます。 細川忠興は、福島正則(ふくしままさのり)や加藤清正(かとうきよまさ)と共に、 豊臣秀吉子飼いの「七将」に数えられます。 その後も、 小牧長久手の戦い、九州討伐、小田原討伐、朝鮮出兵と数多くの戦に、赴きました。 豊臣秀次事件の時、細川忠興は、豊臣秀次に借金がありました。 そのことで、豊臣秀吉に嫌疑をかけれますが、徳川家康の力により、疑いは晴れます。 徳川政権時代 豊臣秀吉が死去すると、石田三成(いしだみつなり)と徳川家康の対立抗争が起きます。 細川忠興は、 徳川家康に従順し、加藤清正や福島正則とともに、石田三成の襲撃に加わりました。 この時、豊臣家筆頭家老であった徳川家康に、領地を加増をしてもらいます。 関ケ原の戦いでの論功行賞により、 豊前国中津(ぶぜんこくなかつ)、約40万石の大名となりました。 その後、細川忠興は、小倉(おぐら)城に藩庁を移し、 小倉藩の初代藩主となります。 大坂の陣にも参戦し、三男の細川忠利(ただとし)に、家督を譲って隠居します。 1645(正保2)年に、肥後・八代(やつしろ)城にて、83歳で死去します。 細川忠興の辞世の句が残っています。 「皆どもが忠義 戦場が恋しきぞ いづれも稀な者どもぞ」 戦国の戦乱を切り抜けた、細川忠興らしい人柄が出ています。 文化人としても活躍 細川忠興は、文化人として、数多くの文化人や大名や公家と交流があり、多くの情報を得ていました。 細川忠興が書いた手紙は、 1800通以上と言われています。 父・細川幽斎同様、教養人であり、特に茶道に通じていました。 茶人・千利休(せんのりきゅう)を師と仰ぎ、 「利休七哲」の一人に数えられる程でした。 千利休が豊臣秀吉に切腹を命じられた時、お見舞いに行ったのは、細川忠興と古田織部(ふるたおりべ)の二人だけでした。 細川三斎(さんさい)と名乗り、茶人としても、活動をしています。 細川忠興は短期気だった!? 細川忠興は、茶道四祖伝書(ちゃどうしそでんしょ)のなかで、 「天下一の気が短い人物」と書かれています。 丹波平定の際に、明智光秀から「降伏してくる者を、むやみに殺してはならない」と諭されています。 戦場では武闘派の細川忠興は、怒りの沸点が低く、敵には容赦がない性格だったと言われています。 父・細川幽斎に激怒する 関ケ原の戦いの際、父・細川幽斎が守る田辺城が、西軍によって包囲されます。 しかし、朝廷の仲立ちもあり、細川幽斎は、敵方に城を明け渡しました。 その報を聞いた細川忠興は、 「なぜ最後まで戦わなかったのか」と激怒し、父・幽斎と一時不仲な関係になります。 妹の嫁ぎ先である、一色氏を謀殺する 細川忠興は、丹後攻略戦で、北丹後を支配していた 一色義定(いっしきよしさだ)を宮津城内で謀殺します。 その際、城内にいた一色義定の家臣や、雑兵もすべて皆殺しにしています。 一色義定に嫁いでいた 妹・伊也(いや)は、そのことを恨み、戦後に、 兄である細川忠興に斬りかかります。 この時、鼻に傷ができ、大名の間では、この傷に触れることを、配慮したといいます。 長男・細川忠隆(ただおき)を廃嫡する 細川忠興は、 長男の細川忠隆(ただたか)を、廃嫡しています。 廃嫡(はいちゃく)・・・嫡男に対して、相続する権利を廃すること。 細川忠隆の妻であった千世(ちよ)は、細川屋敷で、ガラシャが自害した際、姉の指示で 前田邸に逃れました。 千世は、前田利長(としなが)の妹だったため、前田邸に助けを求めました。 細川忠隆は、細川忠興に咎められ、千代と離縁をして、前田家に追い払うよう命じられます。 しかし、細川忠興は、 納得いかず、それに反発して、廃嫡されることになりました。 次男・細川興秋(ほそかわおきあき)を切腹させる 次男の細川興秋(おきあき)は、 大阪の陣で豊臣方に味方しました。 そのことに細川忠興は、激怒し、戦後、細川興秋に切腹を命じます。 徳川家康は、許そうとしましたが、細川忠興は、 自らの命令で、興秋を切腹させました。 細川忠興とガラシャとのエピソード 細川家家臣らが、歴代当主の事をまとめた書物があります。 「綿考輯録 めんこうしゅうろく 」という書物に、数々のエピソードが載せられています。 - 2019年 7月月2日午前7時43分PDT 味土野女城跡(みどのめじろあと) 父である明智光秀が本能寺の変を起こし、織田信長を討ち取る事件がおきました。 明智光秀は、細川親子に味方になってほしいと誘いますが、細川親子は、 頑なに拒否をします。 明智光秀の誘いを断った細川忠興は、すぐに次の行動に移っています。 家臣・松井康之(まついやすゆき)を通じて、織田信孝(おだのぶたか)に 「謀反の心はない」と伝えています。 そして、細川忠興は、正室である細川ガラシャを、 丹後国の味土野(みどの)に幽閉します。 細川ガラシャは、織田家臣の大名の娘から、一夜にして、「謀反人の娘」になってしまいました。 当時、離縁をすると、妻は自分の故郷に帰されることが普通でした。 しかし、謀反人の娘となったガラシャは、帰るところがありません。 味土野には、 明智家の「茶屋」があったとされています。 この味土野に送り返すことで、幽閉という形ですが、形式上では送り返したことになります。 細川忠興は、ガラシャへの愛情を抑えきれなく、幽閉地に通いガラシャに度々会っています。 この時に、 ガラシャは子供を出産しています。 現在、幽閉地跡には、「細川ガラシャ隠棲地の碑」が建っています。 味土野女城跡(みどのめじろあと) 住所 京都府京丹後市弥栄町須川 アクセス 京都丹後鉄道宮津線 峰山駅から車で30分 キリスト教の洗礼を受け、キリスト教徒となる 細川ガラシャの幽閉は、2年に及びましたが、羽柴秀吉の許しをもらい、 細川家の大阪屋敷に戻ります。 しかし、細川ガラシャの自由はなく、家臣2名が常にガラシャを見張っています。 ガラシャは、近親者以外からの伝言は受け取れなく、屋敷内でも許可された部屋にしか行くことができませんでした。 まさに、監禁状態で、生活をすることになります。 細川忠興は、摂津(せっつ)国・高槻(たかつき)城主であり、 キリシタン大名・高山右近と、親しい間柄でした。 高山右近から聞いた、キリストの教の講義を、細川忠興は、ガラシャに話していました。 細川ガラシャは次第に、 キリスト教の教えに興味を持ちます。 1587(天正15)年、夫の細川忠興は、九州征伐のため、大坂を留守にします。 細川ガラシャは、身を隠しつつ、大坂にあった イエズス会の教会を訪れました。 この時、ガラシャは、修道士に色々な質問をし、洗礼を受けることを希望します。 しかし、 教会側は、彼女の身元が、分からなく困ります。 教会側は、ガラシャの身なりから、身分が高いものであると判断し、洗礼は行いませんでした。 しかし、細川ガラシャは、再び外出ができる状態ではありませんでした。 教会には行けないガラシャは、侍女(じじょ)を通じて、教会とやり取りをしていました。 また、教会からもらった書物を読むことにより、信仰を深めていきました。 この間、 侍女の清原いと(清原マリア)や、他の侍女たちを教会に行かせ、洗礼を受けさせています。 この期間に、九州にいた豊臣秀吉により、 バテレン追放令が出されます。 この時、細川ガラシャは、イエズス会のグレゴリオ・デ・セスペデス神父の計らいにより、 先に洗礼を受けていた清原マリアから、洗礼を受けます。 ここで、「ガラシャ」という洗礼名を受けることになります。 ガラシャという名前は、ラテン語で「神の恵み」という意味を持っています。 九州から帰国した細川忠興は、ガラシャの洗礼を受けたことを知り、激怒し 、棄教をさせようとします。 細川忠興は、バテレン追放令が出されている中で、キリスト教を認めることはできません。 しかし、細川ガラシャは、 頑なに棄教を拒み、ついに細川忠興を黙認させます。 「フロイス日本史」によると、九州から帰ってきた細川忠興は、 以前より、残忍で悪辣な異教徒になったと書かれています。 また、キリシタンである乳母の些細な過ちに対して、鼻と耳をそぎ落とし、追い出したと伝わります。 細川忠興は、ガラシャに対して、強く当たることが、しばしばありました。 この時ガラシャは、 「離婚をしたい」と宣教師に告白しています。 キリスト教では、離婚は認められておらず、宣教師は、ガラシャを思いとどまらせました。 1600(慶長5)年、石田三成方の上杉氏を討伐するため、徳川家康は、会津に向かいます。 夫である細川忠興は、 上杉討伐に、同行していました。 「イエズス会日本報告集」に細川忠興が、大坂屋敷を旅立つ際に、家臣に命じたことが記してあります。 「自分の不在の折、妻の名誉に危険が生じたならば、日本の習慣に従って、まず妻を殺し、全員切腹して、わが妻と共に死ぬように」 石田三成は、徳川方についた 大名の妻子を人質に取って、動きを牽制する計画を実行します。 大坂玉造にある細川屋敷にいた細川ガラシャは、人質になることを拒否します。 石田三成は、実力行使に出て、細川屋敷を兵に囲ませます。 屋敷内にいた侍女たちを外に脱出させたあと、 細川ガラシャは覚悟を決めます。 キリスト教では、自殺は禁じられていました。 キリシタンである細川ガラシャは、細川家家老の小笠原秀清(おがさわらひできよ)に介錯を頼みます。 小笠原秀清は、細川ガラシャの心臓を長刀で突き、介錯しました。 その後、小笠原秀清は、屋敷に火をかけて、自害しました。 細川ガラシャは、 享年38歳であり、若すぎる死となりました。 細川ガラシャの事件を知った各大名屋敷では、次々と、屋敷から妻子を脱出させることに成功しました。 オルガンティノ神父は、細川屋敷の焼け跡を訪れ、ガラシャの骨を拾い、キリシタン墓地に埋葬しました。 翌年には、細川忠興は、オルガンティノ神父に、教会葬を依頼し、葬儀に参列しました。 細川ガラシャの骨は、 大坂の崇禅寺(そうせんじ)に改装しました。 細川ガラシャの辞世の句が残っています。 「散りぬべき 時知りてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ 」 意味は、「花も人も、散り時を、心得てこそ、美しい・・・」。 ガラシャは、殉教を望んでいましたが、細川家の為に死んだ彼女は、殉教者になれませんでした。 しかし、 殉教に限りなく近い、最期だったのではないでしょうか。 長男:玄琳・・・京都の妙心寺に入る。 (光慶と同一人物?) 次男:安古丸・・・山崎の戦いで戦死。 三男:不立・・・嵯峨天龍寺に入る。 四男:十内・・・坂本城落城の際に死亡。 五男:自然・・・坂本城落城の際に死亡。 (「明智軍記」の十次郎の幼名?) 六男:内治麻呂 ・・・喜多村保之(喜多村弥平兵衛) 連歌の記録を収めた「連歌総目録」には、 明智光慶(みつよし)が、連歌会に出席した記録があります。 また、この連歌会に 「自然丸」の名前の記載も見られます。 自然丸の名前は、茶人・津田宗及(つだそうぎゅう)の茶会記でも、実在が確認されています。 明智光秀が細川幽斎にあてた手紙には、 「十五郎」の名前が出てきます。 「十五郎」は文面の内容から、長男の明智光慶のことだと読み取れます。 このことから、二人の子供は、存在していた可能性があるとされています。 また、別の角度から、自然丸は光慶の幼名ではないかとも言われています。 また、宣教師ルイス・フロイスは、 「坂本城で明智光秀の二子が死んだ」と述べています。 ルイス・フロイスが言う、坂本城で死んだ「明智光秀の二子」とは誰なのでしょうか? 明智光慶 あけち みつよし 【長男】 明智光慶は「明智軍記」に、明智光秀の長男として登場します。 明智光慶が歴史に登場したのは、明智光秀が亀山城を築城する前後でした。 初参の記録もなく、特に目立った功績もありません。 1582年(天正10)年に、催しされた愛宕山の連歌会で、「明智光慶」の名前が登場します。 記録では、明智光慶は、父・明智光秀と同席し、 連歌の結句を詠んでいます。 また、宣教師のルイス・フロイスが書いた「フロイス日本史」の中で、明智光慶の感想を述べています。 「非常に美しく優雅で、ヨーロッパの王族を思わせるようであった」 明智光秀や妻・煕子が手塩にかけて、育てた息子だったのでしょうか。 1582(天正10)年、父の明智光秀が、本能寺の変を起こし、山崎の戦いが始まります。 その時、息子の明智光慶は、どこで何をしていたのでしょうか? これには、二つの説があります。 亀山城で自害した 本能寺の変が起きた時、明智光慶は、近江・坂本城にいました。 その後、山崎の戦いにより、敗戦した明智光秀は、京都の小栗栖(おおぐりす)で殺害されます。 坂本城は、帰還した明智秀満(ひでみつ)が守っていましたが、羽柴秀吉軍の猛攻撃を受けます。 坂本城の落城と共に、明智秀満は自害します。 一緒にいた明智光慶も、 明智一族と共に自害したと言われています。 明智光慶(あけち みつよし)生存説 歴史上で謎が多い人物には、 「落ち延びて生きていた」という話は、付き物です。 父である明智光秀にも、落ち延びた伝説があります。 その息子である明智光慶もまた、父親同様、落ち延びた伝説があります。 妙心寺(みょうしんじ) 京都府京都市 檀那(だんな)・・・特定の寺院に属して、その経営を助ける=布施をする人です。 明智光秀の妻・煕子(ひろこ)は、妻木氏から明智家に嫁ぎにやってきました。 また、玄琳の師である三英瑞省は、妙心寺の塔頭・大心院(だいしんいん)の住職でした。 この大心院は、 細川ガラシャの夫である細川忠興が、檀那となっていました。 妻木氏と細川氏が関係していて、明智家と深い繋がりを持った寺院であることがわかります。 玄琳は、明智家の家系図をまとめた 「明智系図」(「続群書類従」所収)を作成しました。 また、妙心寺には、 「明智風呂」と呼ばれるお風呂があります。 大嶺院の密宗(みっそう)和尚は、明智光秀の叔父と言われています。 その密宗和尚が、明智光秀の菩提を弔うために、明智風呂を創建したと伝わります。 本徳寺(ほんとくじ) 住所:大阪府岸和田市五軒屋町 アクセス:南海本線岸和田駅から徒歩で8分 明智光秀側室の墓(あけちみつひでそくしつのはか) 千葉県市原市 千葉県市原市の不入斗(いりやまず)に 「明智光秀側室の墓」と伝わる墓石があります。 その墓には、 「フサの方・土岐重五郎・妻のツネ」の名前が刻まれています。 明智光慶は、別名を十五朗と表記されることもあり、 「重五郎=十五朗」と解釈されています。 フサの方は、明智光秀の側室で、妻のツネは、この地で明智光慶と結婚した奥方です。 伝記では、坂本城落城の際、明智光秀の側室のフサの方と明智光慶は、坂本城を脱出します。 家臣・斎藤利治に守られて、 上総(かずさの)国(現在の千葉県)まで、落ち延びました。 フサの方は出家をし、この地にある 西光院という寺院に入ったと言います。 この墓は、明智光秀の子孫であると伝承される一族の方に、管理されているようです。 なぜ、落ち延びた場所が、上総国だったのでしょうか・・・。 実は、上総国には、土岐氏が一部の領地を持っていました。 千葉県いすみ市(旧夷隅郡夷隅町)に万木城【万喜城】(まんぎじょう)がありました。 万木城主は、土岐為頼という人物でした。 明智家の出自は、土岐氏から出ています。 もしかしたら、二人は、上総土岐氏を頼り、この地を目指したのかもしれません・・・。 明智光秀側室の墓(あけちみつひでそくしつのはか) 住所:千葉県市原市迎田 アクセス:JR内房線 姉ヶ崎駅から車で10分 おわりに・・・。 明智光秀が謎多き武将なので、その子供達も謎が多く、真相が未だにわかりません。 詳しく記載されているのは、細川ガラシャぐらいではないでしょうか。 細川ガラシャの夫・細川忠興は、豊臣秀吉や徳川家康に気に入られ、大大名となりました。 細川ガラシャは、その妻であったからこそ、歴史に名が残っていると考えられます。 「明智光秀側室の墓」が千葉県にあるのは、この記事を書くまでは知りませんでした。 上総国(かずさのくに)はかつて、源頼朝が北条氏の力を借りて、打倒平家に向けて、挙兵した場所です。 源氏の流れを汲む明智家に、明智光慶は生まれました。 父の仇を獲る為に、上総土岐氏の力を借りて、豊臣家を倒す・・・。 明智光慶はそんな夢を見ていたのかも知れません・・・。

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